父をめぐるわたしの話(1)魂の仕組み、それ自体が愛

 

父の話を書いていこうと思う。

 

先立って、まず幾つかお断りさせていただきたい。

ここに書く話は、「わたしの話」です。わたしの人生観、死生観に基づいた話です。

それは多くの人のそれとは異なるかも知れない。あなたの考えや意見と異なるかも知れない。

もちろん、今の科学で証明されない「妄想」も含みます。

そしてわたしは議論や論争を望みません。

わたしはわたしの話を記しておきたい。

もしかして、それが誰かの役に立つかもしれない。そうであったら心から嬉しい。

しかし誰の役に立たなくても、わたしには問題ではありません。啓蒙のために書くわけではないから。

だってこれは「わたしの話」なのです。

もし、断定的な物言いをするとすれば、それは「わたしがそうだと思っている」という確信ゆえです。

わたしは、わたしの感じることを大切にしています。

あなたは、あなたの感じることを大切にすればいいだけだと思います。

もし、違和感や不快さを感じるなら、どうぞフォローを外していただければ幸いです。

 

* * *

 

 

かねがね、人はどうして病気や死の話を避けるのか、疑問に感じてきました。

それはまるで「悪いこと」のよう。

そして「悪いこと」という前提で、その話を回避しようとする。

 

人間が持っている、根本的な恐れの最大級が「死」だ。

そして、それは「悲しみ」とペアを組んでいる。

 

でも、この世に生まれたら、わたしたちは誰ひとりとして死なないわけにはいきません。

つまりわたしたちは死ぬために生きている。

どう生きるかは別な言葉で言えば、どう死ぬかと同じなのです。

それは連続した魂のプロセス。

わたしたちは舞台女優みたいなもので、生まれてから死ぬまでに様々なドラマを体験し、役割を終える。生まれたら最後、どんな役割でも演じきるのが仕事。

立派に一仕事を終えることが死だとしたら、やりきったことへの祝福の方が相応しいはず。

そんなふうにわたしは考えるから、死を禁忌のもの、アンタッチャブルなものとして、「そこに触れない」ということの方に違和感を覚えます。

 

わたしはここに、わたしたちを支配する「お金」と同様の問題を感じています。

 

「お金」に関しても、わたしたちはその「仕組み」について習ったりしない。

お金はどこからきて、どのように生み出され、どう循環しているのか。

銀行とは何をするところなのか、商売とはどういうことなのか。

結局、大人になって、興味を持って、突っ込んで調べた人だけがわかっている。

多くは、知らないままで生き、失うことを恐れたり、得ることを喜んだりして、感情のアップダウンを味わう。

またそのために人と争ったり、仲良くなったり、仲違いしたりする。

不老不死の薬を欲しがる人がいるように、楽して儲ける話が好きな人もいる。

どちらも、それが「本物」であるかどうか、多くの人にはわからない。

 

要するに、わたしたちは「根本的な仕組み」を教えられていない。

人間、知らないこと、わからないことを恐れるという根本心理がある。

その意味で、「生命(死)」と「お金」には類似点がある。

 

経済成長がそんなに大事なことならば、どうして小学生に銀行の仕組みを教えないのか。

「前向きに生きる」ことが素晴らしいことならば、どうして命の仕組みを教えないのか。

両者を知った上でなら、ビジネス的な「チャレンジ」や「前向きさ」の意味は全く違ったものになるでしょう。

 

そして、

今以降の世界は、おそらく、この両者の仕組みも明らかになっていくだろうと思っています。

すでに情報としては、実際いくらでも出回っている。

丁寧な解説をしてくれるブロガーもいくらでもいる。

でも、それを進んで取りに行くかどうか、また、その情報を受け入れるかどうかは、完全に個々人の自由意志だろうと思う。

わたしは、「知った上でどう生きるか」、一人ひとりの「価値観の再構築」は、さしあたってものすごく重要なことだと思っています。

 

 

しかし、これらのことについては、大きな世代間ギャップがあるのが事実です。

言葉を変えると「情報格差」です。

現在進行中である父の件も、間違いなく「情報弱者」である親の世代とわたしでは、すべてにおいて捉え方が違う。

それゆえ様々な葛藤が、わたしの側にはありました。

けれども、この一連のプロセスを通じて、わたしは結論として、

魂の仕組み、それ自体が大いなる愛なのではないか

ということを体験的に実感しました。

そう確信したのは先週のことです。

色々な不思議なこと(といっても、わたしにとっては不思議でもなんでもない)、見えない世界の話もあります。

現在のわたしには、もはや、この三次元の、いわば「見える世界」と「見えない世界」はわたしの中で渾然一体となって「リアリティ」を生んでいます。

そんな自分だから理解できるいろんなことがある。

 

まもなく父に会えなくなることは事実としてさみしい。

けれども、最後の日々において、彼は大きな仕事をしてくれているように思っています。

これはうちの父だけのことに限った話ではないはず。

多分、どんな人(魂)でも、そういうものなのではないかと思います。

 

わたし世代のオバハンであれば、「親を看取ること」は身近なこと。

でも「魂の仕組み」はいろんなわだかまりや理解不能だったことを水に流す強烈な作用を持っていると思います。

 

 

それがどういうことかというのを、今後、時間をみつけて書いていくつもり。

 

 

(続くはず)