この週末、父の四十九日法要で、納骨となりました。
本当に月日の流れは早いものだ。気がつけば12月。
一緒に暮らしていないから、父がいなくなった実感、「いつもいた人がいない」はさほどないけど、やっぱ「骨壷」みたいなもんに入って収められると、死んだんだなーって思うものだね。
それにしても。
今回、納骨することさえわたしは知らされていなかった。
「そのお寺」でいいのか、とか、お墓って本当に必要なのかとか、墓じまいも含めて
ちゃんと整理してからにしようよと話していて、別に納骨は四十九日にしなくてもいいわけだし、
ということで母と話し合っていたから、納骨しないのかと思っていた。
その結論になったことを教えてもらうことなく、当日そーゆーことになっていて、驚いた。
まことになんだかなー極まりない感じだけど、もう怒る気にもなれず。
うちの母とはそういう人。
そういう人なんだと思う以外に、わたしになす術ない。
死を目前に、父は母に
ものごとは、「こうすることにした、と決めたことはきちんと伝達しなければ周囲が困る」という話を、時間をかけて辛抱強くしたわけだが、
まー、本当に死にそうな人間が、かなりのエネルギーを使って話したと思うけれども
母はムッとするだけだった。
まあ、彼女はそういう人。
父の死と同時に、わたしの中から、母に対するものすごい怒りが噴出したタームがあったけれど、
今はそれもどっか行った。
彼女のことに限らず、このところしみじみ思うのが、
結局、人は死ぬまで繰り返す生き物なのかなってこと。
何かセンセーショナルな体験をして、ハッとなることがあったとしても、
それで根本的に「その後を変える」ことができる人なんて、ごくごくわずかなのかも知れない。
その時だけは心が入れ替わったような気になっても、すぐ元に戻ってしまう慣性の法則的な。
人が自分で作り上げた根幹なんて、そうそう滅多に変わるもんじゃない。
それで、飽きもせず同じことを繰り返す。
んなこと言ってるわたしだって、
今回の父の死に際の日々を見るに、これからはどんなことでも、してもらったら「どうもありがとう」を
心から言おう
って決めたけど、実際はできてねーだろというセルフツッコミ。
同じことを繰り返すのが人間というものかも知れなくて、
しかも、それが生きてるってことなのかも知れない。
そして、
同じことが繰り返されることにうんざりしても、相手に変わることを期待したってダメ。
かといって、相手を「どうせ変わらないんだから」と決めつけるのもダメ。
あらゆること、今際の際になってしか、わからないものかも知れないしね。
ただ、自分だけはいくらでも変われる。
自分自身のハッピーのために変わる必要があると身にしみて思えば、ってことだろうな。
そうじゃなけりゃ、繰り返しているという事実が問題だと思わず、ただ受け入れる以外にはないってことだ。
悩みムヨオ!
読んでくれてありがとう!
またねー