掲題の件ですが。
「望む現実を創るのは自分」で、
誰かが実現させてくれるわけではない。
しかし
自分で決めたことならば、いくらでも後押しは得られると思う。
それを後押しする「存在」はたくさんいる。
誰にでも。
そう、一人残らず誰にでも。
そんなことは当たり前。
だけど今日、改めてそんなことを思った。
この「当たり前」を忘れてはいけない。
だって、当たり前だって知ってるんだから。
坂ノ下修道院も、残すところあと数日で、完全に閉じます。
夏から自分に芽生えていた違和感のすべて
「もう修道院なんかいらない」
この記事、今再読して、寸分たがわぬ気持ち and more を確認した。
何もかもが違和感だらけになって、
わたしが人生に対して心の底から感じているこの世は自由であるという感覚
「地上ではないどこか」から伝わってくるあらゆる強烈なメッセージやインスピレーション
わたしの凄まじいエネルギーを注いで、自分の手を介して発生しているものの価値
つまり手にした人が感じるなにがしかのbenefitとかluckとか?
これらのものに対してわたしはもっと自覚的になるべきなんだろうと思う。
つまり
「修道院」を始めた当初と、今の自分では、エネルギーのレベルがまるで変わってしまったこと、
自分が確信を持っていることと、発信の向き先や、金額も含めた伝え方にギャップが生じていて
それを自分で感じていることがたまらなく嫌になってきた。
また、見えない力によって巻き起され、わたし自身の身を通して「解放」される巨大な「存在」たちへの対応、、、
それはわたし個人のことというより、集合意識、集合無意識というもっと広く、大きなこと
少し大げさに聞こえるかもだが、地球レベル、人類史レベルの次元のことでもあるのに
なんとなく、わたし自身の言葉で言うと「みみっちいレベルのもの」の範囲に合わせなきゃいけないような意識もいやだ。
これは自分にしかわからない、訳のわからない話だと思うので説明できないが、
とにかく説明的になるようなことすべてがわたしは嫌だーーーーーー。
とにかく、次のステップへ進む!だ。
というわけで
これまでの「修道通信」の記事も、すべて消滅します。
SEO的には残したほうがアドバンテージだろうけれども、あっさり。
わたし、以前から何度も言ってきた。
過去は積み上がらない。歴史に価値はない。過ぎたことなどどうでもいい。
あるのは「今」だけ。
だから、修道院もある日突然消滅するのだ。
それはわたしが「今だ!」ていう瞬間に、消滅するの。
これを読んで、ピンと来て、
なんかわからないけど「惰性でしていることをやめる」って決断する人が一人でもいたら、わたしは嬉しいな。
読んでくれてありがとう!
またね!