母の日に寄せて

先日「桜の花が咲くまで」というお題でアクセサリーセット一式をフルオーダーしてくれたお客様がいました。

このお客様は豪胆で、「細かいことは任せる、とにかくそれを表現してくれればいい(笑)」ということで、やたら自由度もハードルも高い仕事でしたが、無事完成。納品したところ気に入っていただけたようで、ホッとしていたわけですが、

油断していたら今度は「花が落ちてから枯れるまで」という

樹の一生

を通しで表現せよという司令。

 

いや、こういうのほんとありがたいです。嬉しい。リピートというだけで嬉しいのに、「勝手に作ってくれ、金は払う」って、どこの旦那衆かって話ですがその実は可憐な女性。

今どき、本当の男前とは女性を指す言葉!

いやはや、こうありたいものです。見習いたい。

 

それで作ったのが、こんなセット。桜の派が紅葉していく様を表現してみた。つもり。

 

そうしたら、なんと追加(!)で、

母親の誕生日が近いから、似たようなものを頼みます、と!!!!

 

 

ああ、いい話だなあ。素敵だなあ。

聞いてみると、年齢こそ違えど、お母様の誕生日はわたしの母親のそれと同じだったのです。母の日の1日前、5月12日。

そこで、同じ素材を使いながら、極力重さを減らすようにして、万が一、お母様が気に入らなかった場合でも、ご本人が着けられるよう「桜の木」と重ねても自然なものを作りました。

そして高齢者あるあるだと思うのですが、留め具がめんどくさいだろうと想定して、マグネットのものを。

 

歳を重ねた方こそ、大ぶりの明るいものを身につけていただきたい。

お気に召していただけるといいなあ。。。。

 

 

 

ところで。

5月12日と聞いて、ああ、母と同じだなと思ったものの、わたしが母に作って贈ることはありません。

わたしはもう、何年も前から、誕生日に花束を贈る以外のプレゼントはしないのです。

そこには長い歴史があって、「要するにそれが一番平和」だという結論に達したからです。

 

 

わたしの母親は、それはもう、どうしていいかわからない人です。

誕生日に限らず、これまで何かものを贈って、素直に喜んだことが一度もありません。そして、贈ったもの自体も、大切に扱われたことがありません。

とにかく返ってくるのは、「文句」なのです。

この人は、アラを探すために生まれてきたのか、というぐらい、最初に否定的な言葉がきます。それから否定的な言葉が続きます。やがて否定的な側面を出し切った後、ようやく「まあ、ありがとう」と言うか、言わないか、なのです。

若い頃は、気に入らなかったのかなあ、、、などと考えを巡らし、何だったら気にいるのかしら?ということも考えたりしましたが、八方考えを尽くして、「これだ!」と思ったものや、例えば、旅行を提案するなどの体験系も、母親の前には無残に「いやー、無理ね」という言葉であっけなくも撃沈されてしまうのです。

しかもその後、どうってことない「無理な理由」が延々と捲し立てられる。

そこに、「よく検討してみたけど」みたいなことはなく、コンマ1秒の世界なので、やがてわたしは気づきました。

アホくさい

と。

 

 

この人は、特に嬉しくない、ということに素直なのだろう。

だったらそれでいいじゃないか。

けれども、友だちの誰々さんのお嬢さん夫婦が温泉旅行をプレゼントした、といったような話には敏感で、よくするのです。

もう、わたしにはわからない。

要するに変わった人なのです。

 

 

わたしはそんな母親を、「変わった人じゃない」ように思いたい、という気持ちを手放しました。

 

 

 

母親の精神構造はとてもややこしい。

終戦を子供として迎えた彼女は、非常に恵まれた環境にいました。

戦後、周囲の人たちがまだ貧しかったというのに、自分は事業家だった父親(つまりわたしの祖父)のおかげで裕福だった。

ものに困ったことはなかっただろうし、住み込みのお手伝いさんがいて、今で言うならナニーでしょうが、本人は「ねえや」と言います。

病弱で伏せがちな母親(つまりわたしの祖母)に負担がかかることを嫌って、父親がそういう暮らしをしつらえた訳ですが、

そのことを、「周りのみんなは苦労しているのに自分は何ひとつ不自由がない」と、逆に負い目に感じるといった心理があって(その心理はわたしにも理解することはできる)けれども、そのアンビバレンツな心理をいまだに整理することなく持ち続けている、というのがベースにあります。

自分はラッキーだった、ラッキーなところに生まれた、ありがとう、以上。

で済むような話を、余計な要素を取り込んでどんどんややこしくしていったのが彼女で、そのこじらせぶりは今に至るまで凄まじいものがあります。

 

 

なんやかや、飾りを排除していうなれば「ずっと裕福だった人に、本当に貧しい人の気持ちがわかるわけがない」わけですが、彼女は「わかる」と言う、言い張るのです。

わたしに言わせればそれは欺瞞です。傲慢な考えじゃないかと。

だし、むしろ失礼だと思う。

けれども、もうめんどくさいのでそういう話はしません。その方が平和なのです。

 

 

わたしはただ、観察者として、そのようにこじらせたままでいると、単に生きにくいこと、

周囲を否定ばっかりしている人は、実は自分が否定されることへの異常なまでの恐怖心を持っていること、

実は障害など何もないところに、勝手に自分で柵を作ってそこから抜け出せなくなっている人、のサンプルとして「ふ〜ん」と思って見ています。

見ると身内ゆえに、何か言いたくなってくるので、ほっといても自力で生活できているうちは接触頻度が少なくてもいい。

お互いに平和であればそれが一番なのです。

 

 

まーー、そんな人を見ていたおかげなのか、わたしは、嬉しかったらすぐ「嬉しい!」という癖がつきました。

人が自分に何かしてくれたら、その物品以上に、そこに思いを巡らせてくれた時間をさいてくれたことに対して感謝の気持ちを抱きます。

素敵なものを見たら「素敵!」と言う、かわいければ「かわいい!」と言う、問題なければ「問題ない」と言う。

あったりまえのことだけど、とにかく口に出す癖が身につきました。言わないことは伝わらないからです。

 

しかし、この母親というものをどう捉えたらいいのか、

それはやっぱりわからない。

今はまだわからない、ということのみ、わかっています。

それは無理やり納得の方向に持って行かせるようなことではないと思うから、それでいいんだろう。

それに、もしかしたら大した意味はないのかもしれない。

 

 

母の日に寄せて、インスタにマドンナが投じたポストが、胸を打つものがありました。

彼女は若くして母親を亡くしているのは有名な話ですが、このメッセージにあるように、

確かに、自分の夢を追うことも、自分の意見を自由に表明することも許されなかった時代の人々というのは存在する。

今はどう?

けっこう、できる。

だったら、現在という時代に生きている者としての人生を生きることが、前の時代のすべての人たちへの最大の花向けかな、と思う次第。

 

 

 

読んでくれてありがとう。