ケイト・スペード死去のニュースに、しみじみ思うことはただひとつ。
ケイト・スペードが自殺…ブランドイメージを気にしてメンタル治療に至らず
「乖離があることはもう、本当に立ちいかないんだな」
ってことです。
KATE SPADEブランドのものを、わたしはひとつも持っていないけど(アメリカのブランド一般、そんなに惹かれないというだけで特に理由はない)、「デザイナー」としてよりも、かなりのスピード感で成功したむしろ「ビジネスパーソン」として認識していた。
何かを表現したくてやっているというよりも、マーケティング感覚に優れた人という認識。
まあでもアメリカのビジネスってつまりそれだよね。それが前面に感じられるから、わたしはアメリカのブランドに惹かれないんだなーってことを、いま書きながらわかった!
いずれにしても。
ブランドを立ち上げて大成功しても、経済的に大きな成果を得たとしても、
ヘルプフルでビジネスの助けになる物分かりのいい旦那や、かわいい子供に恵まれたとしても、
だからって幸せなわけじゃない。
そういう「成功者の条件」の見本のような人でさえ、心のうちにはその人にかしかわからない闇があり、
その闇を拭い去るのは難しいということ。
一方で、語弊を承知で言いますけれども、
わたしは、デザイナーとか、絵描きとか、ミュージシャンとか、役者とか
「芸術」に従事する、いわゆる表現をする人たちというのは、有名でも無名でも、「そういうもの」なんじゃなかろうか、と思っていて
誰にもわからない理由で自殺したり、気が狂ったりというのは、一般的な感覚の人たちにはわからないというだけで、彼らの中の「やむにやまれぬもの」がそうさせるわけで、
それを外部からあーだこーだと言うのは気がひけるというか。
その人を尊重するなら、ジャッジは無用で、その選択を「あー」と言って飲む以外ないのではないか、と思っています。
自死は大きな衝撃を周囲に与えるという点で、推奨されるべきものではないけれども、自分で自分の命の幕引きを決めるというのも、その人の権利であるような気がしています。
人はみんないずれ死ぬために生きているわけで、それぞれが「良い死に方」を目指して生きている。
ましてや、彼女のように、その人生で大きな仕事を成し遂げた人であれば、やるべき仕事を終えたわけですから、どのような人生の終え方をしたって、その人の生前の功績が変わるわけではないのです。
しかしながら。
わたしが感じた「乖離」の論点はそこではない。
HAPPY GO LUCKY
(日本語で言えばノー天気、みたいなこと)
を標榜しながら、実際はHAPPY GO LUCKYではなかった、という乖離。
そういう世界観をブランドシンボルにしながら、本人が全然そうじゃなかった。
マーケティングの勝ちどころと自分の間の乖離。
そのHAPPY GO LUCKYは嘘モンだったってことになります。
そこは大いに考えるべきところだろうと思うのです。
要するに、自分の本質と違うことを掲げても、もううまくいかない。
これまではどうにか取り繕えてきたかもしれませんが、時代のエネルギーはどんどん「本質をあぶり出す」方に動いている。
本人が本人ときっちり折り合いをつけること。
どこにも齟齬のない、正直でありのままの自分でいること。
無理なものは無理です。
「自分自身でないもの」は放置しておくと、自分の中でどんどん暴れ出します。
自分の中に傲慢さを持てば、その傲慢さによって自滅するでしょうし、優越意識を手放せない人は、その優越意識によって自滅するでしょう。
優れた人と思われる必要はない。
いい人と思われる必要もありません。
ただただ、内と外を乖離させないこと。
これが今以降の時代の大きなテーマです。
もう一つ、言いたいのは
このブランドイメージを気にして鬱になった自分を受け入れられない、という点で
アメリカ人は、人生にきらびやかな幻想を求めすぎている、と思うのです。アメリカ人に限ったことではなく、日本人、いや人間の大半もそうだろうと思います。
わたしに言わせりゃ、そういう考え方自体が「人生をナメてる」。
上り坂もあれば下り坂もあるのが人生で、どっちかだけしかない、なんてありえない。
株価だって上がれば下がる。運勢だってなんだって全部同じことです。
両方あるから「完全」なのに、どっちか「見えづらのいい方」だけを取ろうとする。
よく考えたらわかる話ですが、夜があるから昼があるのです。冬があり、夏があるのがわたしたちの暮らし。花は咲いたら散り、枯れたと見せかけて、実は種が次の循環を準備している。
この世はすべてそうなのに、自分が設定した「フィルター」で、「いい自分」と「悪い自分」を勝手に作っている。
同様に、同じフィルターで自分以外の世界を見る。
そして勝手に責めたり、失望したり、蔑んだりするのです。
いい加減、そういう不毛な仕組みから、自分からいち早く抜け出しましょう。
「カラフルなバッグ」を売りにしたブランドも、ファウンダーの死に方によってサイトは黒く塗りつぶされた。
そうか、、、、、
坂ノ下修道院は、もし今後大成長して(あるかもしれないじゃん!)全世界に知られる存在になったとして、
ファウンダーであるわたしが死んだ時、超マルチカラーの背景で、あの人はめでたく帰天しましたと表記されるようでありたいな。
そういう風に生きていくつもりです。
デザイナーの冥福をお祈りします。