旅の記憶(4)フィレンツェ〜前世なんかどうでもいい

久しぶりに旅の話に戻ります。

 

1994年、半年ぐらいだったと思うんだけど、フィレンツェにいたことがある。

その頃はイタリア語を学びはじめて、ブラッシュアップに短期留学で語学学校に通っていた。

それ以来、実に24年ぶりの訪問!

 

そもそも、なんでフィレンツェに行ったんだろ???

 

わたしこれまでね、前世の話にはあんまし関心がなかったのだけど、

昨年かなー、ある信頼できる2人の能力者の方にお会いしたら、いきなり

「前世のわたし」は、ポルトガルとかイタリアとか、よくわからないけどその辺りの、何か自分の国ってゆーか、領土を持っている立場の人だった、

という話をされた!

 

いきなりピンポイントでそのエリアの名前が出て、びっくりしたというより納得できた。

どうやら今のわたし、最近のわたしは前世の影響が非常に強い、と。

 

「あー、わたしローマに行くと、なんだか理由はないけどホームに帰ってきたように落ち着くし、まあだいたい、イタリアでもフランスでも、もちろんポルトガルでも、行けば本当にリラックスできます」

という話をしたら、それはいわば前世の記憶みたいなもんだから当然だ、と言われた。

 

この話ね、信じるとか信じないとかじゃなく、なんかストンと腑に落ちた。

 

で、前世のわたしは、修道女なんかではなく、むしろ教会やら修道院を保護する立場の人。

芸術家ではなく、芸術家をサポートする立場の人だった、と。

昔から絵画や音楽に並々ならぬ関心を寄せるのは、要はそういうことなんだと言われた。

 

キラキラしたもの、鮮やかな色彩が好きで、心落ち着く、というのは、

そういうものに囲まれて生活していたからで、実際それが本領なのだとゆーことだった。

 

へー!と今のわたしは思った。これも腑に落ちる。

  それで、「前世のわたし」は「今のわたし」が、坂ノ下修道院をもっと推進しろと望んでいる、と。

 

へー!!へー!!(、、、、、でもホントかなあ?)とその時思った。

 

それで、「その人一体誰なんですか?」って聞いたんだけど、

それは知る必要がなくて、むしろ思い出さない方がいいこともたくさんあるから、

まあ、そこはどうでもいいから、気にせずとにかく修道院を推進しなさい、みたいなことで、

 

「ま、そっか」と瞬間的にそれで納得し、

とにかく「いま(現世)を生きる」ことでいーじゃないか、と思ったんだよね。

 

ところが、この春になったら、なんだかふと、そのことが気になってきて

一体、それってどこの誰なんだろ?

と思うようになってきた。

 

それでなんだか、その鍵はフィレンツェにあるような気がして。

 

だってさ、女性で、自分の国を持っていて、芸術や教会を保護した、、、って考えたら、歴史上ある程度特定されてくる。

 

それってさー、メディチ家の誰かなんじゃないの?

  と、うっすらピンときた(笑)  

ま、前世っていってもね、みんな前世なんて数え切れないぐらいあるわけで、

誰か「一人」しかいないなどということはあり得ない。

 

だから「ナウの自分」に影響を与えているのが、そのイタリアだかフランスだかにいた「誰か」な訳で、

10年後の自分には、「江戸の商人」だった時のわたし(テキトーに言ってます)が影響を与えるのかもしれない。

  だいたい「前世」というものは、3次元的な説明の仕方で、本当の本当は存在していなくて、宇宙的には「全て同時にある」けど、話が長くなるから割愛!

ともかく、それがふと気になり始めたから、すごい久しぶりだから行ってみよっかな。とゆーことで再訪したわけです。

 

当時部屋を借りてた家

 

当時住んでたのはVia Cavourという、町の超中心にある通り。

家を出て、左に行けばDuomoがあり、右に行けばアンジェリコの「受胎告知」があるSan Marcoに出る。 超ど真ん中。

で、目の前はメディチ家のPalazzo Riccardiという宮殿。

その周辺はメディチ家の礼拝堂とかなんとかかんとか、超メディチ家ゾーンそのものだったのよね。

住んでた当時は改修中で中に入れなかったいくつかの宮殿、今回入ってみた。

     

で、すごく単純に、

これ、みんなわたしのものだったのかなー

とシミュレーションしてみた。

 

そう考えてみると、わたしのものだったような気もするし、全くそんな気もしない。

  だけど、なんだかすごく気分が悪くなってきてしまったので、長く居たくない。 とっとと退散した。      

で、最終的にわかったんです。

つまりそんなことはどうでもいい

ということが。

    つまり自分が昔は誰だったかなんか、やっぱりどうでもいいってことがよくわかった。    

前世の「人物」という「容れ物」の中に入っていた時の経験が、

その後の「人生」という「道」においての進み方、地図の読み方や歩き方に影響を与えるとは思う。

だって、道は途切れることなくどこまでも続いていくから。

  それより、前の時代の自分がいるとすれば、

その人は人生の道において、何を見つけることができたのか。

それより大切なのは、何を克服できなかったのか、やり残したこと、気づけなかったことはなんなのか。

 

やり残しがあるから、今、わたしという容れ物の中に入って、なんかを経験するというゲームを楽しんでいるわけで。

今、何かをするにあたって、「ハードル高い」と感じたり、 あるいは経験した「やな思い出」なんかを昇華できていないことは多分、すべてそれなんだよね。 前の時代からの「課題」。    

だったら、「今のわたし」は今の自分がいまを生きることで経験できるありとあらゆることを経験して、

味わうことのできるありとあらゆる感情を味わう以外、別にできることはないんだよなー。

それを回避することも、うまくやろうとすることもNGで、

いいことも悪いことも、すべて受け入れる以外にないんだよな〜。

 

という、まあ至極当然の、特に新しい気づきでもないんだけど、

まあ、やっぱそこしかないよねっていう結論になった次第。

 

「フィレンツェに行きました。メディチ家の宮殿の中に、自分とそっくりな絵を発見しました」

的な、ドラマチックな話だったら相当ネタ的に面白かったけどね〜(爆笑)

「むしろ気持ち悪くなりました」っていうのが、笑えるよね。