振動数の違う人と交流する意味 の続きの話だよ。
そういったわけで、どこまでも平行線の会話にモヤモヤしたわたし。
だけどその日のうちに起きた素晴らしい体験が、わたしに気づきを与えてくれた。
そう、その不毛な会話で消耗し、厄介な場、その場で突然、四谷に寄って行こうと思いついた。
理由はわからないけれども、四谷駅前(丸ノ内線の改札側)の橋の上。
あそこって、なんだかものすごく良い気が満ちている、とつねづね感じていて、
つまりわたしの振動数に合致しているということなんだろうけど、
そこに行って良い気を浴びよう、リフレッシュしよう。
ついでにドン・ボスコ(カトリックの聖具を扱うところ)にも寄って、
足りなくなったメダイを仕入れて帰ろう、と閃いた。
ドン・ボスコに行くと、売り場の奥でシスターとオバサマが話していた。
その会話はわたしにも聞こえる大きさで、オバサマは教会に属している方。
あれやこれやのよもやま話。
どうやら、教会仲間のナントカさんとかナントカさんとか、ナントカさんなどの話題。
そのうち、話が別なナントカさん(以降、N氏)に移った。
N氏はどうやらご病気らしい。
そして、入院だか手術だかが必要な状況らしく、オバサマは気を揉んでいる。
しかしN氏は一向にそれを拒否しているらしい。
オバ「Nさんは頑として聞かないんですよ。俺は絶対に祝福されているのだから、大丈夫なんだ、と言い張るの。
みんなで説得しているけど全然聞かなくて、俺は祝福されているんだから、と、そればっかり」
え!と思った。
この考え!N氏の!
これまさに、わたしが日頃考えていること。
病気を病気だとしない考え方。
まさに、ほんの1時間前にわたしが感じていた心境にリンクするエピソード!
わかる。仮に、死ぬことになっても、N氏はそれで本望なんだよ。
委ねて、腹をくくっているんだよ。
神が、N氏まだ生きなさい、となったら生きられるし、
N氏、ここまでよくやった、ご苦労さん、もう休みなさい、となったら天に帰る。
N氏はただ、そんな風に考えているのだろう。
それはある意味、とても積極的な生き方で、
病気だから病院にかないと死んじゃうわよ、という周囲からの集合意識をはねのけている。
そして、わたしはN氏の真意がわかるが、オバサマにはわからない。
「心配」をしていて、「困った人なんです」と言っている。
シスターはなんと言うのだろう?
俄然、興味津々。
わたしは近くまで寄って、シスターの声を聞くことにした。
そこからがものすごい展開だった。
シスター「それはものすごい信仰のあり方ですね。Nさんはとても強い信仰を表しています」
オバ「でも、祝福されているって言い張って、、、」
シスター「そんな強い信仰をお持ちになっているということは、神のところに必ず届いていますね。
そしてそれは、Nさんと神にしかわからない関係です。
周りは気を揉むかもしれませんが、そこはNさんと神だけが知っていることですね。
そんなに強い信仰を持てるNさんはなんと強い方でしょう。
わたしだってもし、殉死ということが目の前に突きつけられたら、逃げ出すかもしれません。
そこまでの覚悟があるのかな、と常に考えていますよ。
遠藤周作の小説のように、仲間を密告するかもしれません」
やばい。
さすがシスター。本物だ。
わたし泣きそうになった。
さらに、それを受けたオバサマの返答もすごかった。
「そうですね。
人にああしたら、こうしたらと言った1日の終わりに
ああ、それはわたしのエゴだったかなと思うことがあります。
そこで、日頃考えていない自分の姿を見ることになるんですよね。
自分にはそんなところがあったのだと」
これだ!
「自分の姿を見る」
結局、そうやって自分を知り、それを認め受け入れていく。
厄介なことであればあるほど自分の姿を見ることになる。
その日、わたしは平行線の会話に振動数を乱し、余裕を持った対応ができなかった。
だけど、
相手が自分の振動数を乱している、と考えるより
そんなことぐらいで乱されてしまう自分はどうしてだろう?
と考えた方がよっぽど生産的だと思う。
相手ではなく、
ただ対応できなかった自分
を見る以外にないんだよね。
「自分は間違ってないのに」みたいなことに固執する意味はない。
だって間違いも正しいもないんだから。
あったのはただ事象だけ。
そしてものすごい大きな気づきを得られたなら、起きた事象は本当にどうでもよくなる。
いやーーーーー、それにしても、
用意されてたかのようなこの会話。
本物のシスターとオバサマに感謝です。
めっちゃいい話を聞いた。
「四谷」の直観に従って本当に良かったよー!