マイレボリューションシリーズ、今日は第2回。
このまえ約束した「無条件」の話ね。
聖書に限らずスピリチュアル的なことに足を突っ込むと、必ず出てくるのが「無条件の愛」というワード。
これの本当に意味するところを知ると「なんだ、そっか!」ってなるんだけどーーー
だけど、これがなかなか厄介で、ほとんどの人にきちんと理解されていない。
理解を拒む人もいる。
逆にね、そう簡単に誰もが理解できるぐらいならねえ
世の中、苦しんでる人はいないよって話でもあるから、
それだけ「条件化(=固定観念)」の呪縛はキツいってことだよね。。。
もちろんわたしにだって、簡単ではない。
理解したことと実行できることの乖離がしょっちゅうあるもんね。
それはどんな人だって必ずそうだと思う。
(ジーザスですら、死刑になると知ったとき一瞬は苦しんだ)
だけど、「無条件」を知っておくとどうして便利かっていうと、
「あれ、これ、トラップに引っかかってない?」
って、自分でセルフチェックができるようになるから画期的なんだよ。
(それゆえYES /NOがいちいち許認可制であるような教祖もいらないのだ)
究極のチェックシステムだよ!
* * *
ま、とにかく我々は、あらゆるものを条件づけして物事を見たり捉えたりしている。
(なぜなら人生はそういうゲームだから)
しかし、そーゆーものを全部全部ぜ〜〜〜んぶ手放した後にくる
本物の自己肯定
=本物の他者肯定
からの、自分が生きてる意味って何?
の究極の腹オチ&腹ククリ
=マイレボリューション(イエーーーイ)
てことだ!
結論から先に言うと(セッカチーヌだから)
どうやら、生きてるたいそうな意味なんか特にないっぽいんだよ。
* * *
しかしね、これもわたしにとっては、究極の答え合わせみたいなもので
そんなこと子供の頃にわかってた。
人生なんか本当はただの暇つぶしだってことが。
だってさー、人みんな死ぬじゃん。
で、「いつ」死ぬかわかんないじゃん。
あらかじめ決められてる期限がわかってるなら、そこでどんな「世の中のためになること」に取り組もうか決められるけど、わからないんだから各自好きなことをやって「時間」をつぶせばいいってだけじゃないのかなー。
好きなことやって、それが「当たり!」だったら世の中のためになるかもだけど、ほとんどのくじと同じように「ハズレ」が多いのでは?
それにもし「いい人」「立派な人」とかがエライのだとして、神様が本当に世の中を良くしたいなら、そーゆー人たちだけ生き残らせていけば、世界めっちゃ良くなるはずじゃん。
だけど、結局いい人や立派な人でも死ぬ、しょーもない悪人でも長生きしたりってことは、、、、
神様は案外無能か、あるいはそーゆーことには関心がないか、のどっちかだろう。
・・・などとランドセルを背負った通学路で考えていた。
しかし、通学路が変わり、通勤路が発生するに従って、
「だけど、本当にそうなのかなあ」とか(自分に降りてきていることへの疑い)
「暇つぶしだと割り切っちゃっていいのだろうか?」(必死こいてる人たちは、どうして?)
などなど、いわゆる「世の中」に対する、ちょっとした遠慮?
そして世の中の大多数に合わせないといけない、的な義務感。あるはチャレンジ精神?
親からの圧迫も当然あり、、、
などなどが長いことわたしを「目覚め」から遠ざけていたわけね。
そして慣れない、似合わないコートをどんどん着込もうとしていた。
今となっては子供のわたし、スゲーって思うのと、
そんな子供のわたしを自分で信じてあげていなかったね、ってことで、謝りたい。
(今の時代はもっと多くの子供が、いろんなことをはるかに知ってると思うよ)
* * *
そう、それでね、人生に意味なんか、どうやらやっぱし、ないみたいなんだよ。
だけど、そこからがすごいところで、
特に大した意味なんかないんだよ
とわかった上で、
これが自分の生きる道!
とか
なんだかわかんないけど、これをやるんだ!
みたいな風に腹落ちすると、
(それはなんでもいいの。自分が望むこと、止むに止まれぬものであれば、人に価値がないと言われるようなことでも)
なんだか知らないけど、なぜかうまく回り出す。
何か手を貸してくれる人が現れるとか、望んでいたもの、必要だったものが与えられるとか
どっかから援軍が送られてくるというか。。。
で、どうにかなる、なっちゃったりするんだよ!
* * *
つまり、「誰になんと思われようと知ったこっちゃない」
「全てを失っても(あるいは失ったけど)別にいい」
「成功も失敗も、どうなるかわからないけど、これをやるしかない!」
みたいな心理状態、自暴自棄とは違う、この上ないすがすがしさ!みたいな時ってさ、
もうすでに
「失敗したらどうしよう」「悪く思われたらどうしよう」
なんて、考えないものじゃない?考える余地がないというか。
それって何も条件付けしていない時の心理だよね。
つまり、ゼロ。どこにも振れていない、ど真ん中。
* * *
ゼロ=宇宙のど真ん中=自分のど真ん中=無条件こそが「究極のチカラ」なんだよ。
で、「神=宇宙のすっげーエネルギー」は、そこめがけてやってくる。
というか、そもそもそこ(ゼロ)にすでにある。それが「愛」だと思うのよ。
無条件の愛=宇宙のど真ん中=自分自身=「究極のチカラ」
だから、人間同士の「愛されたいから、愛を送る」みたいなのは、ちょっと違うわけね。
愛されたい「から」という条件設定がある限り、見返りがないと傷つく。
傷つくなら、それは愛ではない。
愛と愛情は違うしね。
だから愛というのは、相手のイイところも、ヤなところも見て、知って、認めて、それを尊重するってことなんだよね。
イイところだけが「イイ」んじゃないんだよ。
これね、すっごく大事なことで
対象は「相手」がある場合に限ったことじゃないのね。
一番大事なのは
自分自身
なのね。
自分てさー、イイ(と思われる、思いたい)ところも、サイテーなところもあるじゃん。
頑張っても改善しようがないようなところだって、あるじゃん。
それに改善する気さえないところだって、あるよね。
だってもうしょうがないじゃん、こうなんだから!
「BORN THIS WAY」by ガガ
自分のサイテーと思ってるところが、実は人から見ていちばんイイところだったりもするよね。
つまりさ、いいとか悪いって、ただの偏差値なだけだよね。相対評価だから。
自分にやなところがある、自分に欠けてるところがある
で、誰かとの関わりの中で、そういうものは見出されるわけよね。
(考えてみて!この世に自分一人しか存在してなかったら、自分がいいも悪いもないよw)
で、「やなところ、欠けてるところ」を「愛する」=無条件に見て、いいでも悪いでもなくゼロで受け入れる
ってことができると、
あ、そうなのね、自分はこうなのね。そりゃもう仕方ないよね。。。って思える。
その「仕方ない」に1ミリのリキミもヒガミもなくなった時、初めて人のことを愛せるようになるのね。
あ、そうなのね、あの人はそうなのね。仕方ないよね。。。
本当のリスペクトというか
人みな違う、ってことを根本的にわかるようになるんだよね。
で、それができないと
「誰かに何かを指摘された」みたいなことで「いつまでも」腹を立てたり、根に持ったり、
「自分は悪くない」という弁解を「いつまでも」探すようになってしまう。
「いつまでも」を強調したのは、時間をひっぱるってことが、
これまた自ら条件を付加していること(「今」を生きられない)だから。
やなことされたら瞬間的にムカッとくる、イラっとくる
これは単なる感情の発露だから、それも仕方ないことじゃん。
(これについては次回以降のテーマになるね)
あるいは自分は優しくしたのに、相手はひどい、
からの「あの人は悪い、いやな人」という話になってしまう。
だけどね、「優しくした」ってのは自分自身の「選択」でしょ。
相手にも優しくしてもらいたかったけど、叶わなかった、という「だけ」の事実でね、
相手にも相手の気分や事情というものがあって、それは自由だからね。。。。
「優しくしてもらいたかったから、優しくしたかったんだ」
という「自分のモチベーション」&「人それぞれの自由」を、無条件に見ることができれば
いつまでも引っ張ることはなくなっていく。
だから自分を愛するってことが、結局は人を愛し、世界を受け入れるってことなのよね。
そこに我慢とか、修行とかは、必要ないと思うよ。
自分を愛せない人が、人を愛せるわけがない
とよく言われているのは、そーゆーことなんだよね。。。。
ま、これ、ベースの話ね。
人の愛は本当にいろいろあるからさ。
簡単なようだけど、めちゃ難しいのね、「無条件の愛」て。
それゆえ永遠のテーマなんだと思う。。。。
だから、わからない、実践できないのが当たり前で、
実践できないから「だめ」とかそういうこととも違う。
* * *
だけど、それでまたややこしいのは
究極のチカラを求めて無条件をめざす
っていうのはまたちょっと違うんだよね。
ちょい理解が進むと、逆になんでも「無条件でなければならない!」といって
苦しいのに頑張っちゃったりしてる人。
それさ、本当に本末転倒というか、巨大な落とし穴だよね。
「無条件」という「条件化」だよ。
ミイラ取りがミイラね。
しかし本当に陥りやすいトラップのようなもんで、
わたしだってけっこう簡単に引っかかる。
* * *
この話は永遠のテーマだけに、
そう簡単には終わらないので、また今度ね!
読んでくれてありがとう!