人の営みなんて、そもそもダサいもの

昨日は、現在、本の執筆に格闘中の友人と、美味しいもんを食べに行き、

ベラベラと際限なく喋り倒した。

 

 

彼女は原稿を書くというプロセスの中で日々いろんなことを発見しているようです。

 

人に何かを伝えたくて書くということは、思いっきり自分の内面を見ることになる訳で、

本当に伝えたいことを、伝わるように表現する、ということのために

自分は何を開示したいのか、あるいは、何を開示したくないのかを

一人で炙り出す作業なんだ、ということを言っていて、わたしの魂が共鳴して振動した。

 

 

それ、わたしにもよくわかる。

「開示したくないこと」は、自分の内部に埋められた地雷のようなもの。

自分で処理した地雷のことは、

1)思い出す必要のないもの(もう爆発しないから)

もあれば

2)まだ爆発の可能性があるから、多くの土や葉っぱを被せて、それとわからないようにしてきたもの(ほとんど無意識にやってること)

だってある。

 

多くの爆弾処理を済ませてしまった「自分」には、それはもはや地雷ではないから

「もうなんでもないこと」フォルダに入れてあるけれど、

処理が終わっていない人に

そんなこと、実はなんでもないことだったんだよ(だからみんなも安心して処理できるよ)

ということを伝えるためには、

それはどんな種類の爆弾で、どんな殺傷能力があって、

被弾したそれを、どうやって処理したか

という一連のプロセスを開示して初めて、やっと信頼されることもある。

それで1) について語る過程で、思わぬ2)に気づいたりもする。

それは結構、しんどいことだと思います。

 

 

でも、それが、「悟り」からの「行動」で、人生はそこにこそ意味がある。

カモメのジョナサン(完全版)だって同じことを言っている。
(ちなみに数年前に出た完全版じゃなきゃ、この本の意味ないからダメよw)

 

 

彼女の話に戻ると、

本を書く、と決めたことが彼女のマイレボリューションで、

そのプロセス(自己開示)を経ないと、自分が本を執筆する本当の意味から遠ざかる

薄っぺらいことをサラッと書いておしまい、にはしたくないという決意に

「マイレボリューション」からの「エボリューション(=進化)」を感じて

胸が熱くなりました。

こんなめっちゃカッコいい人が身近にいて幸せだ。

 

 

ケシーちゃんにしてもそうだけど、

ときどき、どうしてそこまで?なんのために?と思うほど、

徹底的に開示している。

だけど開示することで、彼女もどんどんエボリューションが進んでいて、

そんな人たちとは、いつも会うのが楽しい。

 

 

開示されるのは個人の体験とか個人の感情で、

それは必ずしもカッコいいことばっかじゃないし、

ある人にとっては、取るに足らないことかもしれない。

ある人にとっては、不快に思うことかもしれない。

はっはー!そんな経験したんだ、さすがだね!みたいな尊敬を集めるような

エピソードばかりじゃないかもしれないし、

それを知って離れていく人だっていると思う。

 

 

でもね、わたし、思うのだけど、

開示される内容に、一切のカッコよさや、論理の整合性、善悪の正しさ、自分いい人なんですよ

のようなものは、もう、今やほんとどうでもいい。

むしろ、そういったものが意識されていればされているほど

嘘っぽいし、逆に「隠したいもの」が見えてしまう。

 

 

だって、むき出しになっている真実っていうのは、人の営みそのもので

人の営みというものは、本来的にそもそもダサいものなんじゃないのかな。

そういうダサさをどれだけ経験してきたか

ということを開示できるのはどれだけカッコいいことか。

 

そして、

「ダサい体験をバネに成功へ」みたいな昭和っぽさ?平成っぽさ?(わかんないけど)は、もっと違うというか。

そーゆーことじゃなくて、ただ単にダサいだけでいいんだよ。

 

 

もはや本当のかっこよさは、ダサさの中にしかないとさえ思っていて、

ついにきたこの新しい時代では

このダサカッコよさ

をどれだけ追求できるかがマイレボリューションの基本だと思う。

ダサさを誇る時代なんじゃないかと。

 

 

それなしに、本当の意味で楽になったりはできないんじゃないか、って思うんだよね。。。。

 

 

 

 

読んでくれてありがとう!

またね!

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