今日、非常に不愉快なことがあった。
あまりの不愉快さに、足がすくんで吐き気がした。
考えてみれば人生で、吐き気がするほどの不愉快さって、何度か経験してきている。
みんな誰でもそうだと思う。
だけどそんな時、それが「よっぽどのこと」でなければ、どうにか「なんでもないこと」のように振る舞おうとしてきた自分が確実にいた。
振る舞おうとすれば訓練されるので、いつしか本当に「なんでもないこと」になっていく。
「よっぽどのこと」というのは厄介で、あくまでも自分内メーターだから、メモリが伸縮する上に、マグニチュードみたいな基準値がない。
だいたい、ほとんどの人の「怒りポイント」を、「え、たかがそんなことぐらいで?」と思ってしまう自分もいる。
ある意味許容量がでかい。でかすぎる。
「ムッとくる」「イラっとくる」のは怒りではない。
それはその場の「気の流れ」に反発する瞬間のエネルギーなだけで、五臓六腑にくるものではない。
瞬間的に放出したら、瞬間的に消える。
怒りはとは、もっと肝の部分から出るものだ。魂に関わることと言ってもいい。
しかしこの類の、真の怒りを、わたしはある時から封印していたことを、昨年金子さんたちによって教えられた。
教えられても瞬時にピンとこないぐらい、
わたしは、自分に向けられた理不尽なことに「怒らないこと」に鈍感になっていた。
そのせいで、行き場を失った負の感情は、わたしの内部に溜まり放題溜まっていて、そこをめがけて「悪いもの」がやってきた。
理性(頭)が抑えているだけで、感情(心)はきちんと表現してほしいと望んでいたんだよ、と。
そうと気づかずい続けた。
わたしは喜びに対しては、実に素直に反応するけれども、怒りに対してはスイッチを切っている。
怒ってはいけない、怒るのは無駄なこと、怒るのはみっともないこと
自分の感情に「善悪」をつけていたのも、自分だった。
その結果、わたしは生きているようで生きていないのだ、と指摘された。
怒りは自分の尊厳を守ることなんだから、今からスイッチを「オン」にしなさい。
そう言われて以来、怒りというものを見直すことにした。
* * *
「怒らない人」というのは、もしかしたら2種類かもしれない。
そもそも怒りの感情が薄い人。
もうひとつは、怒りの発露をコントロールしている人。
多くの場合後者だと思うが、後者の多くは喜びの発露さえもコントロールしている。
つまり「素直に感情を表せない人」。感情の出力レベルを絞っている。
それでも、喜びはしないが怒りはする人も非常に多い。
町で見かける「いちいち暴れるおっさん」とかもそのケースだろう。
怒りを発露させないようにする選択をする背景には、
「怒りをやたら発露させる人が身近にいる」ことが関係あるかもしれない。
病的に怒る人は、怒りを発露させるきっかけを常に求めているので
周囲で起きる「健全な怒り」を放置できない。
健全に発生した怒りに介入し、自分のエンジンに油を注ぐための材料にしてしまう。
そのため周囲は、家屋の全焼を防ぐために、マッチ一本擦ることができない、というぐらい
怒りの発露を抑えてしまう。
あるいは彼らにとって、怒りはことさら自己嫌悪のタネなので、
「健全な怒り」を見ることすら我慢できないから、やはりマッチ一本ですら問題にする。
またしょっちゅう怒る人を見る側には、
「なんだか憐れ」とか「バカみたい」とか「またはじまった」とかの意識が発生する。
それで、無意識が「自分はそうは思われたくない」を自動選択するのかもしれない。
そして怒ったところで何も解決しない、という冷徹な視線も持つようになる。
でもわたしはどこかで、確かに、
「そんな程度のことで怒れるなんて、むしろ羨ましい」と思っていたかもしれない。
しかし、「そうは思われたくない」は、「自分はマトモだと思われたい」という見えづらを選択することだ。
この「マトモ」も怪しいもので、基準値などないし、
マトモを目指すことに大して意味はないくせに、なぜか人はそこに向かって努力する。
わたしも、「まだ」そこに向かっていたんだな。
脱いでも脱いでも出てくるコートとはこういうことだ。
* * *
いずれにせよ、「人にどう思われるか」を気にしている限りは、
人は自分の人生を生きているとは言えない。
「どう思われたい」は主体を完全に他人に明け渡している。
「どうありたい」と考えるなら、自分が主体だ。
似ているようでまったく違う。
当然、後者は振動数が高い生き方になる。
「どうありたい」の選択の上に起きる他人との軋轢は、ある意味必要不可欠であって、絶対に避けられない。
けれども、その軋轢=摩擦で発生するエネルギーの「落ち」からの反作用で、さらに高いエネルギーが発生する。
落ちからアゲた時に振動数は上がる。
だから怒りもしない人は振動数は上がらない。
* * *
今日、そんなわけで、わたしはこの「非常に不愉快で吐き気がする」という感情にきちんと向き合うことにした。
なかったことにしない、という選択。
そこでまた恒例の奇跡だ。
なにかと言うと、例のリアル観音さま。
鎌倉にいた!
凹んでいると必ず現れてくれる。
奇跡も「恒例」ってなると、奇跡じゃなくなるからすごいね。
いろいろとお話しして、
あなたはもっと好き勝手に言いたいことを言い放ったらいい。
遠慮することはない。
何をどんな風に言おうが、誤解する人はどうせ誤解して、理解はできない。
逆に、どんな風に言おうが、理解する人は、理解して支持する。
そういう人たちを大切に。
それでいいのよ、と。
そして、やっぱり、そういう人たちにもっと会いに出て行きなさい、と。
観音さまが言っていることなのよと。
宇宙、やっぱりすごい。
そう、人はみんな聖人である必要はない。
怒ったり悲しんだり、凹んだり、転じて調子に乗ったりすることが
地上に生きている者のやるべきことなんだ。
それでわたしは、
従順で思慮深く優しい人なんかじゃない。
生まれてこのかたそういう人であったためしがないんだから。
別にそれでいいじゃん、ていうことなんだよね。
みんなも、怒っていいんだよ。
読んでくれてありがとう!
またね〜