このところ、「母親との関係」についてのヘヴィな相談事がやたら多い、、、、
なんか表面化する時期なのかもしれないね。
すっごく悩んでいる人が結構いる。
「親子関係」っていうのは、ほんとうにほんとうに強固なブロックで、
無条件に見ることが難しい、最たる関係性だと思う。
それどころか、親の愛は「無条件」だと思っているケースがすっごく多い。
あはは、違うって。「親子」っていう条件中の条件よ。
お互いにとって「自分」と「他者」であることを最も認識しにくい、
「血縁」ていう条件がほんとうに強い縛りを生んでいる関係性。
* * *
生まれ落ちてからすぐ走れる仔馬と違って、人間は一人で立ってエサを捕獲できるようになるまで
相当程度の時間がかかるようにできてるから、
親が物理的に子供の面倒を見る「必要」がある期間が長い。
それは義務というものだ。
放棄することは子供の死を意味する。
赤ちゃんがすぐに独り立ちできないようにできているのが「人類」なんだから、
赤ちゃんがぐずっても、本人のせいではない。
「育ててやったんだ」みたいなことを言う親もいるようだけど
あんまりそこに恩を着せるような話でもない。
子供は「育てる」という学び体験を親に提供しているわけだしね。
そして、
この「育児」からの「教育」という期間に、良きにつけ悪しきにつけ
親は子供を、うまいこと洗脳する。
洗脳とは強い言葉だけれど、必ずしも不快感を伴うものではなくて、
要は子供が今後うまく生きていけるようにと、
その親なりの考えを持って、子供に接する。
しかし考えてみて欲しいんだけど、親が子供を「教育」するのは
あくまでも「過去の情報」を基にしているってことなんだよ。
予測のつかない未来情報ではない。
だからぶっちゃけ役にたつかどうかは誰にもわからない。
子供にとっての最初の「社会」が家庭だから、
さまざまな価値観やルールをまっさらな状態で刷り込む/刷り込まれるわけで
あえて感情を抜きに「洗脳」だという風に捉えてみると、
けっこうなことが冷静に見渡せるようになるよ。
それと、親の育ってきた社会背景や個人的体験、それに対してどのように感じてきたのだろうか
ということも十分に想像してみるといい。
あ〜わかるわかる、そっか大変だったね、という風に思えたら、
もうあなたは親より成長している。
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成長過程において、例え子供がまだ経済を親に依存している状態であっても
親子それぞれが、お互いに全く違う独立した人間だ
ということを認識し合えるようになればいいけれど、
なかなかそれができない関係というのは、結構多いと思う。
で、大人になってもそれを引きずる。影を落とす。あるいはどっぷり浸かってしまう。
教育や価値観の伝承という点で、それが親から見てベストだと思えることと
子供にとってベストであることが、違っている場合、
子供は反発して力ワザで親に「納得させる」または「諦めさせる」か、
抵抗する意欲を喪失して「良い子」になることで生き延びようとするケースがある。
どちらかというと後者の方があとあとタチが悪い。
どこに「自分にとってのほんとう」があるかわからなくなってしまうから。
* * *
世の中には「支配的な親」というカテゴリがあって
わたしの場合は、まさにそれだった。
それでわたしは「良い子」であることができなかった。
わたしはそれが良かったと思っている。非常に良かったと思っている。
「人間は親に認めてもらうために生きるわけではないない」ということを、
たぶん最初から本能的にわかっていたんだと思う。
というのは、わたしの親には「決まった考え方」がなく、
いつもその場の感情で主張がコロコロと変わったからだ。
基準を「他人」においているので、とにかくしょっちゅう変わる。
それでしらけていると、「あんたなんかロクなことにならない」的な
あらゆる呪いをかける。
ロクなことにならなくていい、とわたしは思った。
成長してからは、
むしろわたしの「徹底的に分析的な脳」(=なぜなぜちゃん気質)のおかげで
どうして母親はそんなにわたしを洗脳したがるのか問題
に決着をつけて、
わたしが彼女を「(遠く離れて)温かく見守る」ことができている限り、
この問題はもはや問題ではないことに気づいて、つまり問題ではなくなった。
* * *
親のことを無理に好きにならなくてもいい。
親を好きでいたい、という気持ちが自分を苦しめている。
そして自然に発生する「信頼関係」が持てないのであれば、
それ以上を望んだりすることに意味はないし、それよりとっとと自分を確立した方が早い。
その間に、親も変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。
そして、それもどっちでもいい。
単純に言うと、
親のことを考えるから嫌な気持ちになるだけで
考えなければ嫌な気持ちにはならない。
で、「嫌な気持ちではない自分」の方を、より大切にすればいい。
物理的に離れているなら、さらに全く問題はない。
そして彼らには彼らの独立した人生を送る自由があるということを理解する。
* * *
しかしそういう風に単純化して腹に落とし込むのは、なかなか簡単ではないんだと思う。
いつだったか(10年以上前)、旦那の件で、
とんでもなくすごいカウンセラー(本当にすごい心理療法士)
の門をやむなく叩いたことがある。
その時、育った家庭のことを聞かれて、
わたしが「問題だったけどもう解決した」プロセスを話したら、
「通常は自力でできることではない」と非常に驚かれた。
「まあ、だいたいこういうケースだと、まず病んで、潰れて、復旧はなかなか大変よ」と。
ちなみに、その時わたしは自信を得た。
そっか、わたし、一人で解決できるんだ。
人に聞かなくてもベストを選択できるんだ、というふうに。
ということは、この「超分析的な脳」のおかげで、わたし大丈夫なんだな、と思った。
それで、その時、先生に言われたのが
「その問題は見事に解決したけれど、ひとつ課題としては実は残っているのよ。
それは、このままだとあなたには母親不在だということなの。
理想の母親像がいればいいんだけどね。。。。
過去の体験を遡った時に嫌だった母親がいるから、そこにすっごくいい母親をその残像に差し替えれば完成なの。
考えてみて、あなたの理想の母親像。具体的に「姿かたちがある誰か」が必要よ」。
わたしはポカン。
友達とか他人のお母さんてこと???
「人のお母さんを自分のお母さんだと思えるわけないじゃんw」と言ったのを思い出す。
しばらくそのことはすっかり忘れていて、
けっこう最近のある時
「あ!!!!!!!!!!!」
と気づいた。
つまり、それは、
それはつまり
それこそが
「聖母」なんだ。
人を裁くこともなく、いつも味方だ。
いつもあなたを応援し、そっと裏で手を回してくれている。
愚痴を言えば慰めてくれるし、傷ついたら癒してくれる。
そしていろんなところで、「あなたは大丈夫ですよ」のサインを出しに出してくれている。
優しい、慈しみの権化のような人。
ハッ!
そーーーーゆーことだったんだ〜〜〜
確かにそれはわたしには理想の母親だ。
で、そんな人は、フツーの人間にはまず、いないと思う。
だけどこれは、わたしだけの話ではなく
地上に生きるすべての人間にとって、それが理想的な母親なんだってことに気づいた。
あの先生スゲーな!
と思ったのだった。
母親問題で悩む人に、この話が響くといいなあ。
記憶の中の母親を、聖母マリアに置き換える。マリアさまなら、自分になんて言ってくれたかな?と。
強烈な癒しが起きるよ!
またね〜!