楽になる考え方を選ぶ

 

かつて、ガリレオは、地球が回ってることを発見したけど、それを言ったら教会からアウトをくらって泣く泣く引っ込めたが、裁判所を出てから

「やっぱ地球は回ってんだよ」と言った(ってお話になってる)。

みたいな時代があった。

(どうでもいいけど、昔からガリレオ・ガリレイにも、マリーアントワネットと同じような憐憫の情を感じるw)

 

 

今では地球が自転してないって言ったら「無知なバカ」か「頭おかしい」か、

要するにアウトだ。

 

だけど、「じゃ、誰が地球を回してんの?」って言ったら、誰にもわかんない。

 

それさえも、あと数年後にはわかるようになってるかも知れないから

まーまー、何事も決めつけて考えないほうがいいし、

聞いたことない話を全部「嘘」だと思う必要もないんだと思う。

 

要するに、「正しさ」なんて可変的なものであるってことは間違いない。

 

 

それで、何につけいろんな「説」が入り乱れているこのナウという時代、

何を取り入れて、何を取り入れないかは、その人の自由であるわけだけれども、

わたしが指針にしているのは

 

「その考え方が自分を楽(自由)にするかどうか」

 

の一点集中であります。

 

 

確か秋山先生も同じようなことを仰っていたように思う。

 

 

わたしの、というより人間の「自由」を拡張する考え方であれば採択し

自由に制限や規制を生じさせる考え方であれば採択しない。

 

なんでも楽になる考えを取り入れればいいんだと思う。

 

 

 

「あの人がムカつくんです」

だったらムカついてりゃいい。

その人が「悪い」と思いたいなら、思えばいい。

それで気が晴れるなら、嫌えばいい。

 

そこに「人を悪く思ってはいけない」という規制を持ち込むから、おかしなことになる。

 

そこに一歩踏み込んで

人を悪く思うと、やがて自分が悪く思われる(から嫌ってはいけない)

みたいなことがあるのだとすれば、

それはやっぱし「損得勘定」という条件化なんじゃないのかしら。

 

 

そして、同様に

 

「その人が悪いんだよ」と言われても

どうしても心底嫌うことができない、悪いんだと思えない、

または嫌い続けていることが苦痛に感じるなら

がんばって嫌うような必要もない。

 

 

要するに、そこになにがしかの「無理」や「苦痛」を感じるなら、

やっぱしそれはど真ん中からずれているってことなんじゃないのかな。

 

 

それに嫌いの反対は好き、じゃない。

好きの反対も嫌い、じゃない。

 

 

なんやかや言っても、

継続的に人を嫌うって、ものすごいエネルギーを必要とすることで、

正直、相当な執念がないとできないことかと思う。

わたしは根気がないからそれも難しい。

好んで近寄りたくないとか、特に一緒にいたくはない

とかはあっても、積極的に嫌いかどうかは、実はわからない。

 

 

一生あいつを許さない

みたいなのって、言う時は変なカタルシスがあるのかもしれないけど、

実行するのは結構なスキルなような気がする。

実際、難しくない?

だってほとぼりが冷めたら「どうでもいいフォルダ」の中に入っているのに

自分でそんなことを宣言しちゃったがために、

「許さない」というデスクトップに折にふれて引っ張り出すようなもんでしょ。

結構めんどくさいんじゃない?

自分の言霊に引っかかっちゃっての自己規制というか。

昭和の漫画で育った人にありがちというか。

 

 

なんにせよ、「振動数が違うだけ」だと理解すれば

理解しないまでも、そう思えるようになるならば

またお互いの振動数が変われば、交流するかもしれない(しないかもしれない)って話でね。

未来のことは誰にもわからない。

 

 

まー、ルールは少ない方がいいと思うよ。

自分が楽に感じられる方が、「正しい」より効率的だよん。

 

 

 

って、

「ボヘミアンラプソディー」の歌詞にガリレオ出てくるところから

フィレンツェにいた時「ガリレオ・ガリレイ」っていう語学学校に行ったことを思い出し、

ってとこから始まった話w

 

 

次の修道院トートは「ガリレオ」にしようかな(笑)

 

 

またね〜