(タイトルのつけようがない個人的な話)

 

本日は非常にパーソナルな、自分でも驚きと戸惑いを感じている、まあ、心の深い部分で起きていることの記録。結論もなく、むしろスルーしてもらったほうがいいぐらいの。

 

 

以前から、わたし実は、洗礼を受けたい、正確に言えば「受けるべきなのではないか」と考えていて

理由としてはたったひとつ、「それはジーザスも受けたから」というシンプルなものなんだけど、ここにものすごく高いハードルがあるわけです。

 

今の仕組み上、洗礼を受けることは教会に所属することに直結するわけで、当然、そうなるからにはもろもろの、わたしにとってめんどくさい「縛り」が発生するだろう、してもおかしくない、そりゃ当然だよね、というのがひとつ。

便宜上、所属する形になるのは致し方ない(あくまでわたしの立場からの表現です)としても、経済(維持会費的な経費)以上の縛りを義務付けられるとすれば、、、つまりそのコミュニティにおいてのイミフなしがらみとか、行事への参加を義務化されたりするのはキビシいし、何かの「お当番」のようなものの割り当てをされてもキビシいので、他の信徒の迷惑になってしまうようならそれは本意ではないわけです。

 

次に、洗礼を受けるための、長い認定期間(教義について学びなさい、とかの)を義務づけられるならそれはいやだ。

なぜなら、ここでも何度も言っているように、わたしの感じているジーザスと「教会の教え」には相違があって、わたしは「キリスト教徒」になりたいわけではない、ただのジーザスの愉快な仲間であるという特殊なモチベーションを、「理解」や「共感」はしてくれなくて構わないから、まあしょうがないなぁ的に、「極めてパーソナルなこと」として取り扱ってくれる物分かりのいい素敵な神父がいるのだろうか(まずいないだろう)というのがひとつ。

 

最後に、もしそれらのことが奇跡的に突破されたとして、式次第を「日本語」でされるとピンとこない自分のために、できるならイタリア語でして欲しい、という、ほんっっとうにパーソナルなわたし固有の問題がひとつ。

 

 

わたしの言ってるこれらのことは、教会側にしたら許し難いだろうことは極めてごもっともだと納得できます。普通に考えてクリアできるとは思えないし、それに必死に頑張ってクリアしてまでやりたいという熱意もなく、逆に洗礼を受けるためだけの目的で、とりあえず従っときゃいいじゃんという考えは絶対ないから、

ま、どう考えてもまず無理ですわね

というのが冷静な見通しで、「ま、無理」フォルダの中に突っ込んでほぼおしまいにしてたわけです。

 

 

 

ところが先週、ふと頭に浮かんだ。

「あれ?待てよ?そうはいっても日本は広い。この「無理すぎる要望」について、修道院から発信したら、いつかどこかで誰かが「話のわかる素敵な神父」を掘り当ててくれるかも。。。。。」

ダメ元でそのうち書いてみっか、と思いついて、その後寝込んじゃったから、結局書いてないわけです。

 

 

で、この寝込んでいた間の1日、ふとFBを見たら、決して濃いとは言えない繋がりのお友だちの投稿が目に留まった。

彼女自身、投稿するのが何年ぶり?というものだったから偶然のタイミングで、内容は、鎌倉のある教会で某修道会の聖歌隊を招いて賛美歌のチャリティコンサートをやります、というもの。

パッと見て、「行くよ!」とコメントすると、「イベント企画なんかしたことないから、教えて欲しいし、一度お会いませんか」とメッセージくれて、じゃあ体調戻ったら連絡するねと言って、また寝た。

 

 

それで今朝、ふと思い出し、急遽ランチすることに。

実に6〜7年振りぐらいに再会した彼女は以前と変わらずほんとうに美しく、透明感があって、さらに、この世の俗にまみれていない清らかな感じを増していて感動した。

知り合った時のわたしはイベント企画の小さな会社をやっていたので、その印象が残っているのかな、イベント運営について話をしたいのかなと思っていたんだけど、

「実は3年前に洗礼を受けて、教会に行っているんです。この聖歌隊は絶対に呼びたいと、なぜだかやらなくてはいけない気持ちになって。。。」と切り出され、「かおりさんの記事は読んでいて、マリアさまの話を聞きたいとずっと思っていて、、、」とも言ってくれて、

え〜そんなことになってたんだ〜と驚きつつ、

「わたしも洗礼受けてもいいなと思ったんだけど、(上記のような事情を)呑んでくれるかなと思ってさ。。。」と言ってみたら、あっさり

「あ、たぶん大丈夫ですよ?神父さまに聞いて連絡します」と。

 

で、その神父というのはイタリア、しかも、わたしにとって第二の故郷、ミラノの人!

 

 

 

・・・・この話、どうこれ?

また「望んだら与えられた話」か!

おいおいおいおい。

もしその神父が呑んでくれたら、最大の難関だと思われていた「イタリア語による式」がいとも簡単に実現されるどころか、わたしがミラノに暮らしていたことのご縁、みたいな意味性まで出てきてしまう。

そして、あれっ、数年ぶりに会ったこの友だちがもう、マリアさまにしか見えない。本当によく似ている。

「順調にいけば洗礼式はイースターなので、今年は4月ですよ」と言う。

 

 

ここでわたしの中でフラッシュバックが起きた。

3年前の、ちょうどイースターのあたりに、わたしグラストンベリー〜ファティマ〜サンセバスチャン〜ローマという1ヶ月弱の旅に出て、戻ってきてある日突然、「坂ノ下修道院」を始めた。

いきなり「修道院」なんてネーミング、どう考えたっておかしい。頭おかしいんじゃないかとわたしは思った。だけどそれはわたしの意思と見せかけて実はそうじゃないと確信もしていた。

その後も、各地のマリアさまの聖地に行くわけだが、なぜ行くのか、何を求めてるのかさえ、わたしはわかっていないし、そもそも何も求めていない。「行きたい」「行こう」って思う時、自分が決意しているように見せかけて実はそうじゃない。

それでわたしの手を介していろんな人にマリアさまを届けたりしてること自体、ちょっと不思議に思っている。

さらに、なんで今や自分がジーザスの愉快な仲間だと自覚しているのかさえ、わけわからない。え、何言ってるんだろう自分?という冷静さも常にあるし、へ〜あのわたしがそんな風になるなんてねえ、、、という「遠い目」感もある。

なんで洗礼を受けるべきだと思ってるのか、受けたら何があるっていうのか?自分の意思と見せかけて、やっぱり実はそうじゃない。じゃ、受けたいと思っているこの自分は自分なのか。

 

あれれ〜〜〜

わたしって何なんだろう?

わたし、なんでこんなことになってるんだろう?

 

 

昔から、わたしはただの「誰でもない者」。

何者かになろうとか、何者かにならなきゃいけない、そうじゃなきゃ認められないなんて一度も思ったことがない。だいたい誰か知らない人たちに「認められる」ということが重要だと意識したことすらない。

いつも世界は「自分とそれ以外」でしかなかったし、人々の標準値とはたぶん違う種類の悩み、他の人とは違うモヤモヤを抱えて生きてきた。

今は、もはや悩んでいない。このモヤモヤは相変わらずあるどころかより色濃くなっている気もするのに、それが問題だとも思わない。

 

わたしはただのわたし。誰とも似ていない。

自分がちっぽけだとも思わないし、偉いとも思わない。

同じように、他のどんな種類の人も、ちっぽけだとは思わないし、偉いとも思わない。

 

わたし何を望んで生まれてきたんだろう?

しかも、ほぼ死んで生まれてきたのに、なんで生きることになったんだろう?

強烈な違和感があるくせに、日本に生まれたのは何故だろう?

 

 

てなことを淡々と考えてはみるものの、

ま、、、ラチがあかないわけです、ラチが!

 

 

 

とにかく今、

実際に洗礼を受けることになるのかどうかは、正直言ったら、もうどっちでもよくなってしまって、自分の意志を超えたところの何かが勝手にしたらいいんだよと思ってる。

望んだらとにかく、なぜか道ができて与えられることも、もうわかりすぎるほどわかったし、今後も与え続けられるのだろうということも確信したよ。

だけどわたしが望んでるのかしら?望んでいるのは誰なんだろう?

そしていったいこの先の自分に何があるんだろうか?という気持ちが起きたものの、あっけなく消えてしまい

もうどうでもええわ!

というちょっと投げやりチックな、ある意味自分(が自分だと思っているもの)を手放しているかのような気持ちになってるよ、ということです。

 

もーこんな感じ!

 

そして、ここ数年は影を潜めていた「自分を見ているもう1人の自分」(子供の頃からそれは常にいた)が出現したと思ったら、さらにそれらを見ているもう1人の自分、がいることに今気づいて戸惑いを感じている。

えーーーーーーーーーーーーー???という感じ。不安とかではない。

 

 

こんな心情を誰と共有できるっていうんだろ(笑)

いったいなんなのかしら。頭おかしいのかしらね(他人事感)。

 

お手上げですわ!