GUCCIの事件で思う、終わりと始まり

 

全国の修道女のみなさま

 

 

例のうんざりするGUCCIのニュース。

高級ブランドのグッチ、セーターの販売中止-黒人差別との批判受け

 

そもそもこれを差別だと感じているのは誰なのか、から始まって

論点が多様性過ぎて(笑)、もう何をメインに言っていいのかわからないけれど

あえて一点に絞ることにする。

 

D&G、プラダと続いて、アレが差別なのかどうなのか、ぶっちゃけもう誰も真剣に考えたりしないと思う。

世界の大多数の人間にとっては、また差別かよ!

うんざり感。めんどくさい。

それが本当の差別に苦しんでいる人たちを、理解から遠ざける。

(そもそも「差別」というものが「ある」という前提での話)

 

 

GUCCI側に差別の意図があったわけじゃないのなら、イチャモン一発でなぜ市場から引っ込めるのか。

わたしが感じたのはそこ。

ヴィヴィアンなら戦うだろう。

少なくとも、これを機会に「差別」について世界に蔓延している

わけのわからない「お化け」の正体を明らかにしようと、

考えを発表するチャンスだと捉えるだろう、と思った。

本当にそうするかはわからない。

けれども、「彼女なら、そうするだろう」と予測できるような存在であることが、彼女の凄さなんだと思う。

 

服飾というものは、コミュニケーションのツールだ。着ることで何かを表現する。

ノンバーバル・コミュニケーションの最たるものだと思う。

デザイナーの「表現」がコントロバーシャルなものであることは悪ではない。

そして差別ではない、明らかな意図をもってなされたデザインであるならば、それは表現者としてのプライドをかけて、世界に問うべきじゃないかと思う。

それによって、「本当の差別」(それがあるとすれば)はどこにあるのか、なくすことができるのか、なくならない原因は何か、

みんなにきちんと考える機会を与えること、息苦しい世界に風穴をあけることができる。

 

だけど、それをしない。とっととお詫びして引っ込める。

てことは、つまりこれ、「イチャモン一発で引っ込めても構わないようなデザイン」だってことなんじゃないのかな。

で、もはやそれは「デザイナーの意図」とかはどうでもいい、

そして「意図を持ったデザイン」も、どうでもいい

という、単なる一大コングロマリット(ケリング)に連なる、「いち会社」の、退屈なセールス戦略上のマーケティングによって作られた「いちプロダクト」ってだけのことだ。

ケリング(wiki)

GUCCIなんてもう何年も、創業GUCCI家の人間は関わっていない、ただ「名前」があるからプロダクトを出せば買う人間がそれなりにいる。

人口の多い国が豊かになったのだから、買う人間はむしろ増えた。そしてコングロマリットは儲かる。

ケリングの経常利益が過去最高に、「グッチ」好調で

 

 

去年、GUCCIの件で、コングロマリットに支配されたファッションはどこへ行くのだろうか?って書いたけれど、

継続することがブランドにとって善なのか?

今回の件で、「どこにも行かない」と思った。どこにも行かなくていい。

そしてこれは、巨大帝国の終わりの始まりなんじゃなかろうか?って

むしろそうであって欲しい、と思った。

思想を形にする人間、手を動かして生み出す人間より、ソロバン弾くだけのエライ人が喜ぶ、価格がつり上がっただけの服なんて、実際楽しくない。

ちなみにヴィヴィアン・ウエストウッドはどこの企業グループにも属していない、独立したメゾンで、むしろ今からでも「家内制手工業」に戻したって構わない、ぐらいの心意気がある。

楽しさは、独立性と同時にあるものなんじゃないかと思う。

これからは、楽しい服飾を生み出す才能あるクリエイターがじゃんじゃん出て、文字通りの百花繚乱な世界でいいし、

みんなも、今までの変な既成概念を捨てて、自由に選んで着るということで、自分をどんどん表現していく楽しい世界になったらどんなにいいだろうって思う。