記憶の固執 〜家族をめぐる時計の話

 

父の病気が発覚した後で、わたしは時計を修理に出した。

 

 

とは言え、わたしはもう軽く20年以上、時計をしない人間だ。

まず1つの、というか最大にして合理的な理由が、「失くすから」で、

大学入学時に父親が買ってくれたカルティエ(って言っても可愛らしいやつだよ)を、わずか1週間で紛失するという罰当たりなことをやらかし、

というか

やらかしたという意識すらない、「気づいたら「なかった」んだもん」、というわたしの弁に父は

「お前のだらしなさはどうしようもない!」と怒り(いや、ごもっともです)

「お前みたいなのはいい時計をする資格がない!

一生スウォッチでもしてろ!」と呆れて言った。

なくした時計の金額の話ではなく、わたしのだらしなさへの一点集中で怒られたことで、ごめんなさい、本当にすまなかったという気にさせられた。

そして、その言葉「お前なんか一生スウォッチでいい」は瞬間的に腹落ちして、わたしに時計は必要ないと悟った。

 

だってどんな高級時計をしたところで、1日が30時間になるわけでもなければ、わたしの遅刻癖が治るわけではない。要するに時間にルーズ、というか、わたしはひょっとして時間をバカにしているのだ。

ああ!今気づいた!

時間のことを大したことない存在だと思ってるんだ!

わたし生まれながらの「モモ体質」だ。

 

 

それなのにもう一度時計を買ったのは二十歳の時で、初めてヨーロッパに行った時、パリの本店でシャネルを買った。今でも強烈な思い出になっている。

紛失事件以降、時計全般への関心を失ったわたしだが、この「シャネルがはじめて世に出した時計」は時計機能というよりアクセサリーとしてイイと思った。

それで、どうせ買うならパリで買いたい、と強く思った。

 

二十歳の小娘は、そういう「体験」を求めていた。

何かちょっとだけ背伸びした場所で、堂々と振舞えるかどうか、真の金持ちばっかり相手にしている店員と渡り合えるかどうか、みたいなチャレンジ。

ちゃんと相手にしてもらえたら合格で、鼻であしらわれたら負けだ。

で、この勝負は「持ってるお金の量」ではなくて「振る舞い方」だと知っていた。

 

当時の小娘、しかも旅行者然としたカッコの学生にとって、「シャネル本店」に入ることは、いっぱしのオバハンとなった今とは比較にならないほど覚悟のいる冒険だった。

時代的に、シャネルという店の敷居はとんでもなく高いものだった。

そんなわけで、けっこうドキドキしながら店に入ると

日本人だらけだった!

(今の中華人民共和国の方々でごった返してるのとまったく同じ!)

 

しまったーーー!と思った。

日本人の群れに、店員みんな厭気した顔つきになってる。

わかる人はわかると思うが、言葉の通じない国で「日本人の挙動」って皆同じだ。

ハナから上手いコミュニケーションなんか取ろうとしてない。一目散に欲しい商品を指差して、電卓弾いて、安いとか高いとか仲間たちで言いながら、無表情で「買う」というジェスチャーをして、カードを出してサインして終わり。大荷物を抱えて出て行く。

わたしから見て、当時も今もそういう姿は異様に映るし、まあ、少なくともエレガントでもなければ楽しそうにも見えない。

参った。わたしもこの人たちとヒトカラゲに扱われるのか!とやな予感がして、せっかくの「冒険」は台無しになった。

 

日本人だらけの店内で、わたしに用向きを聞いてくれる順番待ちの時間は手持ち無沙汰で居心地悪かった。

その当時、まあ時計を買えるぐらいのフランス語はできた。なのに心に残る会話もへったくれもなく、かなり事務的に応対され、キャッシャーに案内されるのだが、そこでも渋滞が起きていた。

キャッシャーのオバハンマダムが当時のまさに感じ悪いフランス人の典型みたいな風情でカードに書かれた名前を読み上げる。

わざとらしく「マダーム」をつけてニコリともせず名前を読むわけだが、該当する人が前に出て行き荷物を受け取る、みたいな卒業証書授与感ある異様な光景だった。

 

わたしの番が来た。

それが忘れられない思い出なのだが、「マダーム、、、オサ、、ネ!オサネ!」と呼ばれたのだ。

2つ以上の感情を同時に持てるわたしとしては、

「ムカッ」と「ウケる!」の二本立てだった。

わたしの表記はOSANAIだから、まーフランス式に読むと確かにそうだ。そらま、そうだ。

だけどねー、あなたどう見てもこっちは日本の小娘、しかも連日それだけの数の日本人を相手にしてりゃ、ローマ字読みだってことぐらい知ってるだろ?

と思って言ってやった。

No, my name is オサナイ not オサネ

するとオバハンは笑いもせず、「フランスではそんなこと知らない。この国でこれはオサネだ」と返してきやがった。

これも「ムカッ」と「ウケる!」の同時並行だったが、どっちの意味でもあの時のオバハンの表情は忘れられない。

 

ただ、当時も思っていたけれど、やっぱり彼らはさぞかしムカついてたことだろうと思う。

どう見てもガキな東洋の学生風情がゴールドカード(親の!)でひょいひょいモノを買って行くような光景に毎日対応してりゃ、そりゃ口元もひん曲がろうというものだ。

その時もムッとしながらも、オバハンには心の隅で「わかる、わかりますその気持ち、、、」と思っていた。

 

 

まーそんなわけで、

親父のカードで買った時計だが、気に入ってしばらく愛用していたものの、

あっという間にみんながするようになり、電車乗ったら同じ車両に5人いる、とか、そのうちなんというか、その、、「妙に安っぽい人たち」の間での定番となった感があった時期が来て、

わたしは一気にヤンなって、するのをやめてしまった。

 

その後ケータイというものが登場したら、ますます時計は必要なくなり、わたしの遅刻癖にもさらに磨きがかかり、時間に対する考えも「仕事の納期さえ守ればいい」のシンプル極まるものになっていた。

 

だけど昨年、その辺に放置してあったこの時計のことをなぜか思い出した。

今ならもう誰もしていない。ビンテージ感ある。アクセサリーとして出番かも。

イイかも。久しぶりにしてみよう!

 

そこで思った。これは事実上、親父が買ってくれた時計だ。

この、25年以上軽く放置している動かない針がまた動いたら、彼は喜ぶのではないか?それを見せてあげよう。

すぐさまブティックに行き、ありとあらゆる不具合を直してもらうことにした。

このたび、めでたく息を吹き返し、文字盤も何もかも新しく交換してもらった姿で、時計は帰ってきた。

 

さっそく病院にして行き、父に

「これ懐かしい?」

と言ったら

「俺が買ったやつじゃないか!」と元気な声で喜んで、

「今見るとイイな、小洒落てるわな」とニコニコしてた。

 

そこでこの文字盤の、オクタングル(八角形)はヴァンドーム広場を模している、とかの

ちょっとしたココ・シャネルのあれこれを話したら、親父は楽しそうだった。

 

病気になって病気以外の話をするのは何よりいい。

それも、今となっては再訪叶わないであろう、彼の好きな遠いパリに思いを寄せるのはもっといい。

わたしが生まれて間もなくの頃、父はパリに行っている。そこで彼は「カフェにいたらサルトルとボーヴォワールが入ってきた」場面に出くわし、興奮した調子で母によこした絵葉書を見たことがある。

最近わたしが連続してパリに行くようになって、「パリはとにかく、お洒落だよ」ということを、かつての芸術家連中がこぞってパリに集まったことを例に出して「そりゃ田舎モンを惹きつける唯一の町だな」という言い方でしていた。

 

父は本当は絵描きになりたかった人だ。

しかしあの時代の、しかも長男に、そんなことは許されなかった。食い扶持をどうするんだ。

そしてテレビ局に入社して、最後まで勤めた。そりゃ嫌なこともたくさんあっただろう。

父はよく、気に入らないことがあったのだろう、ベロベロに酔っては

「俺は何のためにこんなことをやってるんだ!家族のためだ!」とわめいていた。かなり頻繁にそういうことがあった。

で、それはわたしにとって、なんだかあまり愉快には思えないセリフだった。

頻繁過ぎるので

「そんな風になるぐらいならやめればいいじゃん、、、」としらけつつ見ていたし、かなり反発もした。要するに、理解できなかったし、彼も自身の怒りの根本を理解していなかったのだろうと思う。

癌は蓄積された怒りの表面化だ。

 

何かと神経過敏な彼はいろいろと無理をしただろうことは、今のわたしにはよくわかる。

本当は自分自身のために好きに生きたかっただろう。しかし「家族のために」と無理やり思うことで、どうにかやりきっていたのだろう。

いろいろひっくるめて、よく頑張ったね、ありがとうと言いたい。

 

 

時計といって思い出すのは大好きなダリの絵である。

日本では「記憶の固執」というタイトルで知られたこのモチーフは時計で、いろんな解釈がされているのだろう。

わたしに言わせりゃ3つの時計は、過去と現在と未来だ。

固まり、こびりついていた記憶も、時間の経過や次元の変化と共に新しい見え方になり、別な記憶となって刷新することができる。

針が動くとは、そういうことなのだと思った。

30年かかって、時計の意味がわかってきた。

 

 

 

 

読んでくれてありがとう!

またね!