許しと赦し、あるいは人間関係とかパートナーシップとかその辺の話

 

全国の修道女のみなさま

 

 

いきなり始めますけれども、

結局のところ、「ゆるす」以外にはないのです

楽になるためには。

 

で、自分が楽になることは、テンションを緩め

結局は相手や、自分に関係する人を緩め、ひいては環境、つまり世界、つまり地球の状態を「緊張状態からほぐす」ことになる。

意識が状況を生み出してるわけだから、あなたにテンションがあるなら、地球もパッツンパッツンだってことだよ。

(言っておきますけれども、「テンション上がったー!」みたいな使い方のテンションではないよ。テンション=緊張のこと。テンションなんか上がったらこれ以上どうしようもないよw)

 

 

それで、ゆるすことは徹底した自己肯定から生まれる。

というか、そこからしか生まれないと思う。

それは問題はどこにもないことを知るってことだ。

問題はどこにもないんだから、たとえばあなたを裏切った恋人や、思いやりを示してくれない旦那、

意味不明に激怒された上司、結局は理解してくれなかった親友、庇ってくれなかった先生、

はたまた支配的だった母親や暴力的だった父親、

その他ありとあらゆる、あなたにとって理不尽で、耐え難くて、今でも理解不能で、今でもやな記憶として残っている

すべての人間、あるいは事象のどれもが「問題」ではなかったと悟る。

それが「ゆるし」だ。

 

 

「徹底した自己肯定」というのは、

自分から見て、ほんとやんなる自分の姿すべてを「しょーがねーな、もー」と受け入れることだ。

たとえば、どんなに意識しても約束の時間に遅れる自分(あたしだよ!)

黙っておけばいいものを、余計な一言を言ってしまう自分(あたしだよ!)

イラっとしたら顔に出る自分(あたしだよ!)

今年こそ、月に一度は大掃除しようと思うのに、結局できない自分(あたしだよ!)

誰かの言うことを、絶対そのまま信じられない懐疑的な自分(あたしだよ!)

自分の欲求に従わずにはいられない自分(あたしだよ!)

人を傷つけたのに、ま、しょうがねっか!と簡単に忘れる自分(あたしだよ!)

それらの「特性」のおかげで数々の失敗を重ねてきて、

およそありとあらゆる、今度こそはちゃんとしたろ!という誓いのすべてをことごとく反故にしても平気でいられる人物、

それが自分だ!

ということを可もなく不可もなし、というどこにも力が入ってない心境で受け入れることだ。

 

確かにいろいろ至りませんけれども、そういう風にできてるんだからしょーがない。

一旦はそれを嫌おうとも、愛そうとも、誇ろうとも、結局自分はこの自分と共に生きていくしかない、

「自分、不器用ですから」 by 高倉健

に代表される、「もう、それは仕方のないことなんだ」一種の諦観に近い状態だ。

不器用な高倉健に、器用になることを強要してどうする?って話だ。

それに、器用な高倉健に意味や価値があるのか?という話でもある。

 

これが腹落ちすると、

な〜んだ、オメーもな!

#youtoo

という単純なことに気づく。

 

自分がしょーもない存在である以上、あんたもしょーもないことは致し方ない。

あるいは

こんな自分でも超素晴らしい存在である以上、あんたも超素晴らしいんだわな。知らんけど。(関西風)

 

どちらも同じ意味で、単純に言うとそういうことだ。

無条件肯定。逆ポツダム宣言。(逆じゃねーし)

 

そこに、エネルギーがどうの、波動がどうの、ややこしいことをのっけようとするからシンプルじゃなくなる。

この点においてはスピ的理解がどうの、陰陽がどうの、あとなんだ?わからないけど、とにかく一切がやかましい情報である。

 

 

人の悪口を言うと自分に返ってきますよ、とか

そんなの「自分に返ってきたくない」から言わない(ほうが得策だ)みたいなこともどうでもいい。

または「人の悪口を言っているちっせーヤツと思われたくない」みたいなことも同様だ。

この話は「損得」みたいなレベルをゆうに超えた部分の話だ。

 

自分にとって、そいつが「やなヤツ」だ、ムカつく、と思うなら、思うことは自然だ。思ったらいい。

だけど、自分の中にも、形を変えて「やなヤツ」の要素はある。

当たり前じゃん。

ただそれだけのことである。

「やなヤツじゃなくなろう」とするから、やなヤツが許せないだけのことである。

 

 

で、「ゆるし」。

大事なのは「赦し」だ。「許し」ではない。

原理主義者みたいなみみっちい言葉のこと〜?と見せかけて、これはすごく大切なことだと思う。

 

じゃ、許しと赦しは何が違うのか。

 

「許す」ってのは、なんていうか、「許可を求める」みたいなことだ。

相手を許す、ってのは、例えば

旦那(あるいは妻だっていいけど)が浮気をしたとする。

そこで血の雨が降るぐらいのいざこざになる。別れるだのなんだの大騒ぎになる。

旦那の行動によってこっぴどく傷ついた。この傷を忘れることはないだろう。

けれども、その後妻は旦那を許す。

もう二度と浮気はしないと旦那が土下座したから、いつまでも怒っているのをやめることにした。

それが許しだ。

要するに、「もう二度としないなら」という条件付きで、許して「もらう」わけである。

「今回は許してあげるけど、これからはあなたのケータイ全部見るわよ」。

そんなレベル感だ。(割とよく聞く話なんじゃなかろうか)

そして、当人がそのことを思い出すとき、いつまでも多少なりとも痛みが残る。封印する対象になることかもしれない。

 

ひきかえ「赦し」はそういうレベルではない。

 

長年連れ添った夫婦が、もうとっくの昔にお互いへの情熱なんて失くしてしまった。

ちょっとの山とさんざんの谷を経験して、その度に凹み、傷つけ合い、罵詈雑言飛び交い、もろもろの修羅場があり、

今やすでに相手が自分を満たしてくれるなんて期待もしない。自分と相手はまるで相容れない。

どうやっても絶対に理解しあったりすることはないんだ、ということを、お互いが認め合い、

それがもう悲しくもなく、責める気持ちもなく、

老い先短いある日「ああ、お互いしょーもないけれども、本当によく頑張って今まで生きてきたね」みたいな、

ふとねぎらいの感情が出てきたときに飲むほうじ茶の味に涙が溢れる

といったような感情のことを指すと思う。

ねぎらいは自分自身と、そうは言ってもその道中を、決して望む形ではないにせよ伴走してきた相方へのねぎらいだ。

この感情が起きたからといって、「じゃあこれからは出かけるときに手を繋ごうよ」でもなく、

特に何も変わりはないけれど、心の奥から何かのわだかまりが抜けたと感じた瞬間は「赦し」である。

そして一度これが起きると、諸々の過去を振り返ったときに痛みなどは感じない。

この時、宇宙っていうか神のヘルプが加わって赦しは圧倒的な癒しになる。

「温泉入って癒されました」みたいな、その辺に転がってる安っぽい「ファスト癒し」ではなく本物の癒しだ。

 

 

そう、「赦し」は起きるものだ。

人の意思によってなされるものではない。

頑張って「許そう」なんて思ってるときに「赦し」は起き得ない。

 

 

だから、「どうやってもあいつを許すことができない」

のは、自分が傷つけられた、あるいは自分を怒らせた「事象」と、その主体者である「あいつ」ではなくて

自分(の中に残っているしょーもなさ。往往にして事象とは直接関係ないことかもしれない)を許すことができていない

つまり完全な自己肯定ができていないからで、

その段階では、誰かを許せなかったとしても、これまた仕方のないことだ。

無理に許そうとしたって無理がある。

そんで、自分が自分のしょーもなさを、なんかの拍子にふっと受け入れられたとき、

どうやっても許せなかった「あいつ」のことも、「なんだ、オメーもな」と、むしろ愛おしさを持って思い出すことができたりするわけだ。

 

だからやっぱり

あなたの平和が世界の平和!

 

 

 

 

そしてこれを読んだからって赦しも癒しも起きない。

頭で理解は必要なくて、「物事どこにも問題はない」視点で自分を見つめたらいいだけだと思う。

 

 

今日はその辺の神父よりいいこと言った気分!(笑)

あはははは

 

 

読んでくれてありがとう!

 

またね〜!