「ジャッジを手放す」って言うけどさー

 

全国の修道女の皆さま

 

 

「ジャッジを手放す」。

この言葉が界隈で出回って、誤解をしている人も多いのではないかと。

 

わたしも常々「良い/悪い」はない!と言っています。

言っていますけれども、例えば商品を試作している時に、「ジャッジ」がなければ成り立ちません。

この色とあの色を合わせてみたけれど、やっぱダメだ、とか。そっちの組み合わせの方がはるかに良い、とか。

「ダメ」な方は直ちにバラします。陶芸家なら「ガッシャーン(割る音)」でしょ。

ちょっとしたことで、ダサくもなれば、オシャレにもなるのですから、ジャッジするのは当たり前です。

それは自分の「肌感覚」による「判断」です。

 

 

だけど例えば、これを人に置き換えると、

人間ですから、それぞれがいろんな「情報」を取得すると思うんです。

「この人は仕事ができない/できる」

「この人は腹黒い/裏表がない」

「この人はいつも否定的だ/肯定的だ」

ここで言ってる「情報」は、人から聞いた伝聞という意味の情報ではなく、あくまであなたが接してみての「肌感覚」として、あなたのセンサーがキャッチする情報のことです。

人はこういう肌感覚を持って、人とつきあっていくんだと思います。

どの程度まで信用するか、とか、どういう話題に向いているのかとか。

で、それもやっぱり「判断」だと思うのです。

そらそうでしょ、「お金にだらしない人」に金庫任せたりしないし、

「細かいお金にこだわる人」に投資を任せたりしないんだから。

 

 

だけど、「ジャッジを手放す」とは、

だからその人は良い(善い)とか、だからその人は悪い(ダメ)とか

そういう風に裁くなよ

ということだと思うんです。

 

人のことを悪く言わない、ということではなく

(だって、それなりの程度をもった嫌なことをされたら悪く思うのは当然ですから)

たとえ悪く思うような経験をしたとしても、

その人が本当に「悪い」のかどうかを、あるいは「善い」のかどうかも、

実はあなたの知ったことではありません、あなたが決めることではないですよってことなのです。

もっと言えば、「そこに真理としての善悪はない」のです。

 

判断した情報を固定化しない。

言ってみればそんな感じなんじゃないでしょうか。

 

例えば、

「この人って自分がピンチの時だけ泣きついてくるけど、こっちがピンチの時には取り合わない人なんだな」と思ったとする。

一旦は「あー、そーゆー人なんだ」と思ってもいい。

その上で、その後再びそういう場面になったとして、それでもその人を受け入れるかどうかは、あなたの自由です。

受け入れて、あなたがピンチの時に、またテキトーにあしらわれても

「ま、いっか」と思えるのならその話は平和です。なんの問題もない。

でも、「え?あれだけケアしたのに、自分の時はスルーかよ!」と傷つくのなら

それはその相手じゃなく、あなたのミスだと思う。

または、もしも今度は相手が、あなたの話をじっくり聞いてくれたのだとすれば、

これは、あなたが最初に下した判断「こっちがピンチの時には取り合わない人」は覆され、

情報を書き換える必要があります。

というか、書き換えれば済む話です。

「なんだ、こっちの思い込みだった」。それだけです。

 

で、いずれの場合にせよ

「だからその人は善い人なんだ」も「だからその人は悪い人なんだ」も、

「自分は善い人なんだ」も含めてですけど、

幻想であって存在しないのです。

 

「でもあの人はいい人なんだから」とか「自分の性格は悪いんだ/いいんだ」とか

思う必要はどこにもないです。

それはジャッジです。

握っている手のひらを、そっと開いてみましょう。

それが手放しです。

 

 

わたしは、「人を裁くのは神の仕事」だと思っているので、

まあ、どんなにムカついたとしても、最終的には、それがいいのか悪いのか、

神が決めりゃいい話

だと思って、とっとと次に進みます。

ややこしいことは神に押し付けとけばいい。

人間はそこに余計なあれこれを付け足したりしなくていいんじゃん、

人間の仕事(=感情を味わうこと)をしてればいいんだよ。

それが腹落ちしたらアホみたく生きやすくなりました。

 

 

読んでくれてありがとう!

 

 

またね〜!