男性性女性性、あるいは新時代のパートナーシップについて

 

全国の修道女の皆さま

 

ちょっと今から書くことはなんというか、わたし個人からのメッセージというよりは、(誰かに)伝えておかなくてはいけないことのようなので、そういう前提で書きます。

けっこう長い話だし、この話がまったく響かない人もいるでしょう。そういう方はどうぞその時点で離脱してください。言うまでもないことだけど。

 

 

で、

 

話のきっかけはここから始まる。

 

昨日、録画してあったドキュメンタリー映画『人生フルーツ』を観た。

ちょいと前に界隈でもかなり話題になっていたし、観た人も多いと思うけど、作品は、老建築家、津端修一さん夫婦の素敵な暮らしを描いた密着もの。

名古屋から1時間ぐらいのところにある、彼自身が都市計画のグラウンドデザインをした昭和のニュータウン。その一画の300坪の土地を、自分たちの手で里山化して、つまり山を崩し、平らにして作られた広大な人工タウンの中に、再び人の手で緑を取り戻した森を作り、畑を作り、小鳥のさえずりを聞きながら、そこで採れ果実やた野菜を大切に調理していただく。

ターシャ・テューダーの暮らし方にも似た、いわゆる「丁寧な生活」を描いた内容は、本当に素晴らしかった。

 

これを観ていて途中からわたしは、涙が止まらなくなってしまった。それも、尋常ではない感じで。

いつまでも涙が次から次へと出てきて、自力で止めることができない。はて、どうしたものか。

 

この涙を、もう一人の自分は冷静に考えていて、

これは、わたしが本当は望んでいたけれど手に入れられなかったものだ、と思った。

 

 

そう、確かにわたしは望んでいた。

この人だ、と思う相手を尊敬し、その能力や理想を信じ、その相手が快適に仕事に邁進できるよう全力を尽くす。

愛情を込め丁寧に調理したものを食卓に並べ、家を綺麗にし、庭があれば庭の手入れをし、いつも朗らかで思いやりをもち、夫の為す仕事を誇りに思う。

夫は自分の持てる力を社会のために使い、家庭においては充足してリラックス。妻の「仕事」に感謝し、大切にし、かわいがる。

仕事が「現役」でなくなったら、花鳥風月を愛で、畑を耕し、多くは求めず、自然のもたらすものの中で生きる。

それは立場として敢えていうなら「専業主婦」かも知れないが、

そこに社会を知らないという意味での侮蔑的な意味や、働かなくてもいいんでしょ的なやっかみ含む勘違いが含まれているとすればそれはまったくお門違いだし、割り切った役割分担としての「家事は妻」のような考え方からも程遠い、二人で終を迎えるための共同作業としての生活だ。

 

そんな風に暮らしたい、老いていきたい、と願った女性は、すべてとは言わないまでも、けっこういたんじゃないかと思う。

少なくとも、わたしは確実に、ある時期までは、それを望んでいた。

そう、結婚するまでは。

 

結婚して、わたしの描いていた理想は、ことごとく反故になった。結婚した相手は、そんな生活のあり方を拒否した。

そして、その理想を持ち続けること自体が、自分を苦しめていることに気づき、いつしかわたしはそれを捨てた。

今の自分の暮らしではまったくないものが、この作品には描かれていて、しかもそれはドキュメンタリーで、嘘の話ではない。こんな風に暮らした人たちが、やっぱりいる。

 

ああ、わたし、こんな風に暮らしたいと思っていたんだったなあ、、、と思い出して、どうしてこうならなかったのだろう、と振り返ったら悲しくなった。

そしたら涙が出てきた。

でも同時に、今の暮らしが嫌なのか?いいえ、全然そうではない。

今は今で満ち足りている。長い試行錯誤の末にたどり着いた「現在地」にわたしはとても満足している。

旦那とは離婚したが、それも後悔していない。むしろ離婚した後の方が、良い暮らし方ができているし、何よりわたしは自由だ。はっきり言ってハッピーだ。

それは長い苦しみの末、自分に与えられた何よりのご褒美だと思っているほどだ。

 

 

それでもイミフに涙が止まらず、見終わった後、部屋に引きこもり、どんどんどんどん悲しくなってくる。

なんなんだこれは?と思ううちに頭も痛くなってきて

つまり、いつもの「なんかが来た」予感が濃厚だ。

そしてわたしはきっと、そんな暮らしを望んでいたもう一人の自分が悲しんでいるのだろうと思って、「理想を叶えてあげられなくてごめんねごめんね。でも今の在り方も幸せなんだよ?」と言って寝ることにしたが、いっさい効き目がなかった。

(それもそのはず、そういう話じゃなかったと後でわかる)

 

 

朝になり、通常であればケロッとしているものを

やっぱり涙が出てくる。

そして頭が死ぬほど痛い。吐き気もする。

 

もう、そーゆー時は金子さんに相談する以外にない。

(しかし本当にこういう人が居てくれてありがたい)

 

 

そこでわかったこと、それが、本日「伝えておくべきこと」なのだけど、

この悲しみは、「わたし個人に関連したもの」ではないということだった。

今、多くの女性の悲しみが集合意識になっているらしく、今回はどうやらそれをわたしが代表者としてキャッチしてしまったようだ。

そして、その映画を見て感じたことは、ものすごく大切なことなので、忘れてはいけないと言われた。

 

 

それを言われた当初、わたし自身が超ピンときたかといえば、そうではない。

むしろどっちかというと「ポカン」ではあったけれども、新時代を生きるのに大事なことのように思うのでわたしなりに咀嚼したことを、わたしの言葉で書いておく。

 

 

本来、女性の持つエネルギーというのは、男性を社会で活躍させるためのもの。

これは決して、男女のどちらが偉いとか、上だとか下だとかの話ではなく、「性質」の話だ。

けれども、現状、女性たちはその本来もったエネルギーの正しい使い所がなくなっていた。

要するに社会として、男女のエネルギーがうまく循環していないから、根源的な意味で女性は生かされていないのだ。

 

女性の「社会進出」という表現1つとっても、何か違和感があるし、「女性の活用」とまで言われてしまうと違和感はさらに深まる。

受験をしたら優秀な学生は女だという理由で医学部にも入れない、ということをおっさんによって決められた。(新時代だからこそそれが明るみになった)

会社に働きに出たら出たで、いまだ残る男尊女卑と、おっさん社会としての不文律。女はそこをこらえてオッサン化して乗り越えるか、アホくさくなって離脱するかの二択しかない。

イクメンだとかの修飾された言葉があるってことは、男が育児にどんだけ参加してこなかったんだよってことの裏返しなわけで、特にもてはやされるような言葉ですら本来はないはず。

そしておっさんはおっさん同士、本来は仲良くもないのに、サル山でのポジショニングのために、なんだかんだでつるんでいるけど、その結果としてスキルが上がったり業績が上がったり、めざましい結果を持ち帰れたりできてるかといえば、そんなこともない。

そんな男を尊敬して黙って支えたりできるか?

っていうのが、まああまり大きな声では言われてない(ような気がする)けど、女性の本音としてはあるだろう。

あるよ、絶対にある。

さらにややこしいのは、それを無意識にでもわかっているから男は自分を大きく見せなきゃいけない、と変なベクトルで頑張って、さらにおかしなことになってしまっている、言わばねじれに次ぐねじれ。

ま、実際、談合してかばい合い、問題解決を先延ばしにするおっさん文化の中で日本は経済すらも落ちぶれた。

・・・・というような悪循環の中で、「女性性」というものが悲しんでいる、といえば誰にもピンと来るかもしれない。(少なくともわたしはピンときた)

 

けれども、この悲しみは、実は大切な感情で、「本来あるべきではないあり方」に対する意思表示である。

そして新しい時代では、やっぱり女性の持つ力を本来的なあり方で解放しないといけない。

 

 

今、引退する美智子さまにスポットが当たっているのは、彼女のもつ「支え力」「かばい力」「身を呈してでも夫を守る力」だ。

それは「国体」というものに対して、「私」を捨てて尽くすという夫の仕事に対する献身という二重構造だ。

そこに、おそらく多くの人が、聖母マリア的な姿を見出していると思う。そして夫も、その献身に対する深い感謝の言葉を表明している。

 

これはある意味「ザ・昭和」のあり方と言ってもいい。昭和の王道だ。

 

 

しかしニュー時代は昭和ではない。

昭和であってはいけない、とわたしは思っている。

 

昭和。

戦争、そして敗戦からの復興。経済興隆。右肩上がり。

そんなものはもう二度とこない。

二度と来ないからといって悲観的になることなんか一つもない。

 

男女のパートナーシップのあり方は、1:1では行き詰った。

これからは個:nになる。

それぞれの「個」に対してたくさんのnが紐づいて、まさにフラワーオブライフのように網の目を成すように、繋がって、広がって、大きな「和」、調和の「和」ができる。対立は無効化される。

そこには、個を殺して「全体」を生かす、昭和のスタイルでもなければ、自己顕示欲がエンジンとなって突っ走る人を生み出した平成のスタイルでもない。

全体とは「経済的利益」ではなく、「愛」の方向に向かう力のことだ。

 

 

そして女が支える男とは、誰でもいいわけではない。誰でも支える価値があるかといえば、そうではない。

「これだ!」と思う男のことである。

それは、繰り返しになるけれども、自己の利益というよりは、「愛」つまり「社会の善」のために力を尽くす男のことだと思う。

これは何も、社会的に大きなことを成せる男のことだけを言ってない。

社会の平和は自分の平和からしか生まれないのだから、身近に平和をもたらせる男はすべて「愛」の力を持っている。

少なくとも、そう信じ切ってあげる(あげるという言い方は嫌だが、あえての表現)ことが大事なのだと思う。

「自分に愛を向けてくれないから愛を与えない」とか、「経済的にギブしてくれないからだめだ」とか、そんなことを言ってるうちは女もやっぱり未熟で、「その程度」なんだと思う。

ちなみに、支えの対象は「夫」や「恋人」だけとは限らない。

会ったこともない、どこかの若手経営者だって、もしも「愛」のために素敵な事業計画を実行しようとしているなら、エネルギー的に十分に支えることはできる。

(この考えはけーーっこう重要だと思う。なぜなら、残念ながら世の中にどんな事業が存在しているかに関心を持たない女性も多いから。それは女性の落ち度だと思う)

 

 

もちろん、すべての男が社会で活躍する、しなきゃいけない、して当然だ、ということはない。

はっきり言って、そんな能力はないのに、男だからというだけで「そのポスト」「その役割」にいる(いなければならない、いさせられる)ようなケースはたくさんあると思う。

彼らは、本当は向いていない「その役割」を、力みなく降りることがこれまでは許されなかった。それによって多くの悲劇があちこちで起きた、起きてると思う。まさに昭和の名残だ。

けれども、そんな現象も長くは続かないのではないかと思う。強制終了の時が来る。

そして苦しんでいる男の、そんな「限界」を見極めたら、「もう、降りてもいいんだよ」と優しい声をかけるのも女の役割かもしれない。

そこで「プライド」などと言ってカッとくるような男は支える価値がない。

 

それに女も、能力がある者はどんどん自分の思うように、社会的な翼を広げていったらいい。

けれどもそこは、「お金を稼いでいる自分カッコイイ」的な、旧来のおっさん的自己顕示欲をベースにしたモチベーションベースである限りは、「所詮その程度」で、ハピネスには繋がりにくく、そこもやはり、「ニュー時代の全体調和」のために個の力を出す、というあり方が問われるような気がしている。

 

そのようにして、二分化されて、網の目から抜け落ちていく存在は、男女ともに出てくるだろうと思われる。

 

 

修道通信で以前から何度も言っている

「聖母マリアはあなた自身」

というのは、まあそんなような意味でもある。

もう、崇めたり、お願いしたりする対象ではない。

世界を救うのはあなた(わたし)自身。

自分の持っているすべての力を、愛のために使っていく。そんなニュー時代。

一言で言えば「愛されるより、愛したれ!」。

そんな感じ。

 

 

確かに女性性は長らく抑圧されてきた。

けれども、わたしたちの誰もが「被害者」なんかではない。

解き放つのも、封印するのも、あなた次第だよ、ということを言いたい。

それは言い換えれば、ずっと過去を見て生きるのか、未来を作ろうと自覚するか、それだけの差なんだと思う。

ただの選択の問題だ。

 

 

 

 

読んでくれてありがとう!

少しでも伝わったら嬉しいです。

ガガガッと書いたから、今後なにかと補足していけたらと思ってます。

 

 

またねー!