そこにいないが、そこにいる。悲しいけれど美しい

美しさに悲しみは不可欠だと思う。例えば聖母マリアの涙などはその最たるものだと思う。

歓喜の中にある美しさはわかりやすく「良きもの」とされているけれど、強烈な悲しみからしか発し得ない美しさというものがあって、芸術はそれをよく表現している。
ポジティブ−ネガティブといった底の浅い話は入る余地がない。

 

パリのパレ・ガリエラで開催されていた、DALIDAのコスチューム展を見た。
http://palaisgalliera.paris.fr/en/exhibitions/dalida-une-garde-robe-de-la-ville-la-scene

家に1枚CDがあるダリダについて、正直いくつかの歌と、きれいな人であること以外、詳しくはなかった。(そしてこの展示を見て、彼女がフランスにおいていかに偉大な存在として君臨していたかを知ることになった)

まず入場口に掲示された彼女のバイオグラフィーを読んで、その最後に衝撃を受けた。
てっきりまだ存命と思っていた彼女は、87年に自身で人生の幕引きをしていた。 “La vie m’est insupportable, pardonnez-moi.”(人生に耐え難い。許して。)という言葉を残して。53歳だった。

こんにち、そんな言葉は賞賛されたものではない。でも日本語の響きの重さとは逆に、そのフランス語は、わたしには、なんだかとても美しく感じた。もちろん語弊を承知で言っている。
そしてこの展示は、最初から最後まで、その言葉が表す悲しみと美しさに満ちていた。

 

こんなことは珍しいが、会場に入った瞬間、その完璧な美しさ(コスチュームの美しさというよりダリダ自身の美しさ)と共に、そこに充満している強烈な悲しみを感じて、わたしは一瞬にしてその空気に同化してしまった。

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真っ先に目についたのがこのドレスだが、それよりも、その背後に飾られた無数の彼女のレコードジャケット、写真には写っていないが、その上段に巡らされたポートレートの数々を見て、

「ああ、この人は自分自身であったためしがなかったのだな」

と感じた。

とにかく、すべての写真で彼女のイメージは違う。

メイクアップ次第で、どんな顔にでもなる。出自であるイタリア人らしさを強調したらクラウディア・カルディナーレのようになるし、フランス人風であればフランソワーズ・アルディに似ていたり、アヌーク・エメ風だったり、カトリーヌ・ドヌーヴ風にもなったり、あるいはハリウッド女優風なのもある。

時の流行やモードに合わせて、いろんな彼女が作られ、それが売られ、それを演じたのだろう。そのそれぞれが、完璧に美しかった。

舞台コスチュームや日常服のデザイナーも、ピエール・カルダン、ピエール・バルマン、イヴ・サンローランなどなど錚々たる顔ぶれだった。

そして彼女自身はどこにもいない。その悲しみが、そこに充満していた。

 

そういう演出に、この展示を意図的にしたのかもしれない。フランスなら、彼女がどんな人生を生きたのか、誰でも知っているわけだから。

身につけるものというのは、単なるモノにあらずで、持ち主のエネルギーが転写されている。
肉体の彼女はそこにいない。けれども、確実に会場にいた。わたしはそれを感じた。

 

 

そして言葉というものが、こんなに空間の演出として作用するとは。
この一面だけで、せつなくて胸がいっぱいになってしまった。

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Quand on dit “je t’aime”, on veut dire “aime-moi”.
(愛してると人が言うとき、それは自分を愛して、という意味だ、的な。日本語にすると何かニュアンスが失われる気がする)

ああ、確かにこれは真理だと思った。真理だけれども、ここには、望む愛を得られなかった人の言葉だとわかってしまう何かがある。切ない。だけど、美しい。

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この言葉も真理だ。つまり彼女は、やりきって人生を閉じたのだろう。
彼女はステージという一見華やかに見える仕事において、立派な修道女だった。

 

会場を後にしたわたしは、しばらくの間とにかく胸がいっぱいだった。悲しい感情に支配されたというのとは違う。

 

 

あまりにも美しかったから、重かったけれど図録を買った。図録というより完全な写真集で会場には展示されていなかった靴やジュエリーなども掲載されている。
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不思議なことに、今これを坂ノ下で見てもまったく悲しみを受け取ることはできない。
やっぱりあれは現物から発せられる「気」=「フォトン」=彼女自身 だったのだと思うと感慨深い。

帰ってきてから彼女について検索し、詳しく解説されている記事を見つけた。
関わる男たちがみんな、必ず死んでしまう。悲しみを持ちながらスポットライトを浴び輝き続ける。もちろんとんでもない悲劇であることに違いはないが、それを欲していて、自分からも強烈な光を発する。そしてやがて人生は破綻する。

・・・・すごい、としか言いようがない。

 

ただし、彼女のような人生を送る大スターは、多分もう2度と出ないだろうと思う。
彼女はそういう時代に作られた。そういう時代だった、それでよかった、時代に望まれていた、というべきか。

今は望まれていない。

2020年も近いこの今の時代、人が輝くエネルギーはこの種のものではないと思う。
もっと喜びに満ちたもの。その喜びとは、「何かを成し得た喜び」である必要はなく、「生きている喜び」、「存在している喜び」だと思う。

祈りと共に存在する喜び、と言ってもいい。